サンクチュアリ通信BLOG 平和戦略

世界平和戦略、日本の国家戦略から、宗教、歴史、政治など、さまざまな分野を幅広くあつかうBLOGです。 分かりやすく、面白い、解説に努めます。

平和的天皇制と島国的サムライ -島嶼独立国家の守り人-

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王者の使命は国民のため外敵と戦うこと

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-3》 

 

 永田正治 (Masaharu Nagata)

 

 

 ●はじめに

5月1日の新天皇御即位をもって、令和の御代が始まりました。歴史的に、中華帝国から自由だった島嶼独立国家を統治した制度は、外国勢力から完全に独立していた、天皇制と武士(幕府)でした。この天皇制と武士のあり方を、諸外国の王権と比較し論じることは、日本という国の本質をとらえるカギを握るものです。




世界の王権の存在理由は「外敵と戦うこと」 

 
諸国は通常、近隣に油断のならない敵をもち戦争に備えなければなりませんでした。歴史的に国家にとって最も危険な存在は、外国や異民族だったのです。ヨーロッパは諸国が割拠し、中国は周辺異民族との絶えざる抗争がありました。世界において、国防は王権の義務であり存在理由で、君主はまずもって、外敵と戦う意思と力をもつことが要求されたのです。


世界では異民族の征服王朝に支配され、外国の血を引く君主に統治されることはありふれたことでした。ところが日本は、内外の歴史文献に外国によって征服されたという記録はありません。私達の国家観を考えるとき、「異民族によって支配された覚えがない」ということは重要です。日本は外国の脅威に直面しなかったので、王権の存在理由が外敵から自国を防衛することにはなり得ません。天皇制のあり方を論じる時、まずこの事情、すなわち日本史の特殊性を踏まえる必要があります。


古代、天皇は軍権を掌握し、軍人的性格を帯びていた時代もありましたが、平安時代を通じて軍事とは縁のうすい存在となり、武家が台頭すると軍事は全く武家に依存するようになったのです。また、ほとんどの天皇は親政を行なわず貴族や武家が政治を担っていました。



ヨーロッパでは皇帝や国王は軍隊を率いて戦いました。十字軍戦争のとき、ヨーロッパの君主は自ら騎士軍団を率いてアジアに遠征しました。19世紀初頭、アウステルリッツ会戦では皇帝ナポレオンに対しオーストリアとロシアの皇帝が軍を指揮し戦ったのです。数年前、イギリスのヘンリー王子が、アフガニスタンでの兵役中にタリバン兵士を殺害したと語ったことは衝撃的なニュースでした。中国や韓国でも軍権は君主が掌握するものです。これら諸外国の君主と日本の天皇はあまりにも性格を異にします。



天皇弱体化と島嶼国家的サムライの台頭で「国のかたち」が形成

7世紀後半、天武・持統朝に「日本」という国号、「天皇」号が誕生し、天皇の宗教的権威も確立しました。当時の日本は、朝鮮半島の白村江で唐の海軍に大敗し、唐・新羅連合軍の侵攻に備えていました。初めて直面した国家的危機のなかで強力な天武政権が登場したのです。



この程度の危機に晒されるのは諸外国では日常的なことです。敵国と国境を接している状況では、突然敵軍が侵入し城塞が占領され、奪還できないときは外交戦略を駆使します。韓国の史書三国史記』を見ると、このような戦争と外交の記述であふれています。


結局、唐・新羅軍の侵攻はなく、平和な国際環境に戻りました。平安時代には貴族が権力を振るい、院政時代から平家執権時代を経て、鎌倉幕府が開かれます。13世紀の承久の乱天皇権力は大きく制限を受け、元寇のときは外交から国家の意思決定まで幕府が行なったのです。14世紀の南北朝動乱は、天皇権力の決定的な弱体化をもたらし、足利義満にいたっては王権簒奪まで目論みました。


以上のような、天皇が力を失って行く歴史は天皇制の弱体化過程と説明されます。しかし、この弱体化して行く過程がむしろ、日本ならではの王権が確立した歴史なのです。国の王権の性格は、その国の置かれた国際環境に大きく左右されます。周辺に敵国が存在するとき、王権は強硬になり、平和が続くと融和的になりました。日本は平和時代が諸外国と比較にならないほど長かったのです。武力を持たなかった天皇制存続の理由は、国内的な要因ではなく外からの脅威がなかった「島嶼平和国家」をめぐる事情によるものです。国際環境が平和な国なので、平和的王権が国情に適合し、平和的君主制が存続し、発展したと見るべきです。 


日本は武力、権力を持たない王朝が千年以上続きました。西洋では理想の王国を称す「千年王国」という言葉がありますが、このように長期間、ひとつの君主制が続くことは極めて稀で、それが国のあり方に与えた影響は計り知れません。天皇制が力を失ってゆく期間に、日本の統治システム、すなわち「国のかたち」が成立したのです。


日本を実質的に支配した「サムライ」も、島嶼独立国家の土壌から生まれた日本的なものです。武士は、源平抗争、南北朝動乱、戦国乱世など幾多の戦乱を引き起こしましたが、これは国内での主導権争い、政権争奪戦で、諸国が直面した外国との戦争とは本質的にちがいます。私達は大きな被害を受けることなく撃退した元寇について、後々まで底知れぬ恐怖体験として語り継ぎましたが、遥かに多くの人が死んだ戦国動乱に対しては元寇ほどの恐怖心を抱いていません。外国による侵略のインパクトは、同族で戦う国内戦とは次元を異にするのです。


このように武士団は、外敵から日本を防衛することも外国に侵攻することも想定せず、他の武士を抑えて国内の覇権を掌握し維持することを目的とする、国家生存と拡張の必要と結びつかない軍隊でした。幕府というものも「内向き」で「私的」な政権で、強力な軍事力を保持していてもこの国の枠を越える存在ではなく、大陸に覇権を拡大するなどというスケールの大きな野心やビジョンは持たなかったのです。



天皇は日本文化の中心である京都にあって、武家の上位に立つ正統君主でした。平和的な天皇を戴く武家政権というかたちは、平和を上位概念とし、武力を下位概念とする独自の国家体制で、日本は外からはサムライが治める「武の国」と見えても、国のあり方は、天皇を中心とする、明確に「文治の国」の形態をとる国家だったのです。

 

 

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本来の姿を変え、軍服を着る天皇になり、天皇制と島嶼独立国家は危機に陥った

 

 

天皇制の危機と島嶼独立国家の変質

天皇制と島嶼独立国家の危機は、外国に侵攻し、あるいは外国の君主制を取り入れ、天皇制と国家のあり方を改革した時に訪れました。豊臣秀吉は、アジアに覇を拡げ日本の国家体制を変革しようと企てました。彼の「唐入り(中国征服)構想」は天皇がアジア大陸で中国皇帝のような存在になるというもので、日本が帝国になれば「島嶼独立国家」は終焉し、天皇制も普通の王権に変質します。


力で君臨する者は更に大きな力によって滅ぼされます。秀吉の国家構想は、天皇制にとって極めて危険なものでした。中国征服を目指した文禄・慶長の役が失敗したことは、アジアにとっても日本にとっても幸いなことでした。



徳川幕府は伝統的政治体制である幕府制を踏襲し、天皇を上位の存在として戴く一方、日本のあり方を変える外国侵略を放棄しました。家光代までは、朝廷と幕府は葛藤を経ましたが、綱吉代となり関係は良好なものになりました。


近代になり、日本は西洋の国家制度を取り入れ、天皇制はヨーロッパ君主と似たものになりました。ヨーロッパの皇帝は軍の最高司令官で、軍人は皇帝に忠誠を誓い皇帝も軍服を着用しました。それに倣い、天皇も軍を統帥する最高司令官となり軍服を着る君主となったのです。これは大和朝廷を建てるために甲冑に身を固めた「大王」が近代に蘇ったと言え、千年かけて築いた平和的天皇制の性格が変えられ、島嶼独立国家が大きく変質したことを意味しました。


長いあいだ、天皇は対外戦争とは無関係でした。元寇の時に戦った武士や、文禄・慶長の役で戦った武将に天皇が最高司令官という意識はいささかもありませんでした。中世、近世期の最大の対外戦を指令したのは天皇ではなかったのです。天皇と軍事を結びつけた戦前の天皇制は日本の伝統と合致しないものでした。戦後、外国では理解困難な「象徴天皇制」が定着しましたが、それは伝統的天皇制とちかいものだったからです。


現在のヨーロッパ王室は政治権力がなく、国民の総意によって存在します。しかし天皇制との違いは、ヨーロッパの王室は、近世以降に、政治権力を持たない王室に変わったということです。それは民主主義を標榜する市民革命によるもので、革命政府が王の権力を奪ったのです。そのために王を処刑することさえしました。ところが天皇制は、民主的な政治体制とも共存可能な性格を、すでに中世期に備えていました。この特殊な君主制は、島嶼独立国家のみが成立させ得た王権で、日本が平和尊重の伝統をもつ国であることを示す歴史的証左でもあります。


ここまで、難解な議論、お付き合いいただきありがとうございます。次回は、Coffee Breakとして、スピリチュアリティーをテーマに届けしたいと思います。

 

 

 

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