サンクチュアリ通信BLOG 平和戦略

世界平和戦略、日本の国家戦略から、宗教、歴史、政治など、さまざまな分野を幅広くあつかうBLOGです。 分かりやすく、面白い、解説に努めます。

「原版エクソシスト」の真実・ホラーは宗教か?

 

f:id:heiwasennryaku:20190607073253p:plain

エクソシストは愛の勝利の物語

          

 永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 


●ホラーの本質と「エクソシスト

 

人は「怖いもの見たさ」という心理があります。とくに若者には強く、ホラー映画や恐いテレビ番組などはたいへんな人気があります。ホラーは、霊的存在である悪魔や呪いがテーマとなるものですから、明らかに宗教的です。その背景は、過去に人が人に対して犯した恐ろしい行為です。

 

 

これは、宗教はつよく意識します。罪や業と規定し、解決しなければ人は救われません。しかし、悪魔、呪い、怨念などは、本来あってはならないものとして、必要以上に表にあらわしません。むしろ反対のものである、神や仏、賛美、許しなどを強調することによって、忌まわしい超常現象を克服しようとします。

 

 

1973年に上映された「エクソシスト」は、世界に衝撃と恐怖をあたえ、ホラー映画の新時代をつくりました。今日でも、ホラー映画ファンが一番怖い映画にえらぶ作品のひとつですが、「エクソシスト」は、ホラー映画とは何かを考えるうえでたいへん参考になります。

 

 

1971年、レバノン出身のカトリック信者ウイリアム・ピーター・ブラッティ氏が書いた原作小説は、キリスト教における、信仰の勝利をテーマとした内容なのです。巻頭に、イエズス会士の人々が、霊現象を「どう考えればいいかを教えてくれた」と謝辞を記しているほど、カトリック教会のさまざまな助力を得て完成した作品です。アメリカでベストセラーになったこの小説が、どんな内容であるかを知るには、裏表紙に書かれたディーン・クーンツ氏の紹介文が端的にあらわします。

 

 

エクソシスト」は、えもいえぬ恐ろしさに満ちた壮絶な作品であると同時に、偉大で感動的な作品だ。なぜなら、ホラーの内側に大いなる愛 ー 母と娘のあいだの愛と、少女の魂を救おうとする神父の卓越した愛 ー を描いているからだ。この作品がベストセラーになったのは、《悪魔憑き》の恐怖場面にではなく、感動を呼ぶ物語に読者が惹きつけられたからだ。

 

 

この本は最初に、イエス・キリストが悪霊に憑依された人を癒す聖書の引用、マフィアが、3日かけて敵対者を殺害した様子を笑いながら話す盗聴記録の内容、共産軍が教会に押し入り、キリスト教司祭の舌を切り、7人の少年の耳に金箸を突き刺した残虐行為、そしてダッハウアウシュビッツ、ブッヘンヴァルトというナチス強制収容所の名を引用します。これはホラーを成立させる背景が、過去に人が人に対して犯した恐ろしい行為だということを強調しています。

 

 

主人公デイミアン・カラス神父は、ワシントンにあるイエズス会系のジョージタウン大学に勤務します。彼は精神科医でもあり、大学にいる神父たちの心理カウンセラーをしています。しかしカラス神父の内面には、神に対する不信が生まれ、信仰の危機に直面していました。この苦悩する神父に、娘が悪魔に憑依された母親が助けを求めます。そして悪魔祓い師(エクソシスト)のメリン神父を呼び、二人で娘にとり憑いた悪魔と対決します。

 

 

メリン神父も、高齢のうえ重い心臓病を患っていました。まさに命をかけ悪魔に挑むのです。二人はともに、強力な悪霊と戦うことなどかなわない、致命的な弱点を抱えていたのです。悪魔はカラス神父の弱みである母親の幻を見せるなどして、信仰心を挫こうとします。しかし、メリン神父の強固な信仰の感化を受け、信仰心を取り戻してゆきます。カラス神父は極限の状況下で、「信仰の師」と出会ったのです。

 

 

メリン神父は、悪魔との対決中に発作を起こして死にますが、カラス神父は卑劣な悪霊に怒りを発し、殴りかかり、自分に乗り移れと迫り、乗り移った瞬間、窓から身を投げて死に、少女を悪魔から救います。

 

 

二人の神父は、一人は信仰、一人は肉体に重い十字架を抱えながら、少女を救うために悪魔と戦い命を捧げました。そして一人は信仰を再び獲得し、一人は神の聖業を成すなかで献身的生涯を閉じたのです。この物語はキリスト教聖職者の、愛と信仰の勝利の物語なのです。

 

 

 

●恐怖効果と宗教の価値観

 

メリン神父は悪魔の狙いについてこう語ります。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、とり憑く犠牲者にあるのでなく、われわれ ― われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティーを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が究極的には堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある―」、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」、「そしておそらく、サタンでさえもが ― その本質に反して ― なんらかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」。

 

 

悪魔は、ジョージタウン大学礼拝堂の聖母像をけがして冒涜し、神に挑戦を挑んでいます。悪魔の狙いは少女ではなく、家に住む者や信仰の確信を得ようとするカラス神父、人を救うため死も恐れないメリン神父など、それらの人がもつ愛情、信仰、勇気、すなわち人間の善なる心を破壊することなのです。

 

 

また、創造主である神の力は圧倒的で、勝利は定められています。霊的にみると、悪が悪を行うのは、自身が救われるためです。悪は自身の悪を解決できず、善に対して悪をなし、善が克服することによって、救われるしかないのです。エクソシスト」は、凄まじい悪の力にも打ち勝つ、神の全能性と人間の善意がもつ偉大な力が強調されているのです。

 

 

しかし、ウイリアム・フリードキン監督の映画では、前出の、メリン神父の悪魔の真の狙いに関する洞察部分は削られています。この言葉がなければ、物語の本質は変えられてしまいます。削った意図は、恐怖を増幅させるためです。宗教的意味は隠され、悪霊の目的は少女を破滅させることに集中し、見る人を少女に同一化させ、孤立感と心の弱さをとらえます。神の無力、人間の善意の弱さ、悪霊の圧倒的つよさが強調され、恐怖がながく人の心を支配します。ホラー映画のお決まりのパターンです。

 

 

実は、映画でもメリン神父の言葉は短く語られていましたが、73年版では、最後の編集で削ったのです。ラストシーンも変えられました。原版では、カラス神父はキンダーマン警部と気が合いましたが、カラス神父の親友であるダイアー神父とキンダーマン警部も気が合い、冗談を言いながら一緒に歩き出す、さわやかな場面で終わります。カラス神父の存在はダイアー神父につながり、ストーリーの恐怖を緩和し、物語を昇華させているのです。73年版ではこの場面はカットされ、ダイアー神父が、カラス神父が転落した階段を暗い表情で見つめる場面で終わります。

 

 

2000年、これら削除した場面を復活させて、ディレクターズカット版として復刻しました。これは、本来の宗教性が加味され、ブラッティー氏の原作に近づき、霊的真理を語る映画に変わったと言えます。

 

 

しかし、「エクソシスト」の映像はあまりに刺激的で、宗教的には「霊的に良くない」もので、宗教教団がお勧めできるようなものではないでしょう。宗教では、悪霊をリアルに表現することは避けるのです。ホラー映画で評価できるのは、人が罪を犯したら、真摯に懺悔し、つぐないの行いをしない限り、その罪業は消えることなく、必ず報いを受けるというメッセージを発信していることです。宗教的な「地獄の戒めの教え」と見ることもできます。人をゲームのように次々と殺す、アクション映画よりいいかも知れません。

 

 

 

増上寺とお化け屋敷のコラボ

 

日本では、「呪怨」や「リング」が怖いホラー映画の上位にありますが、恐ろしさを増幅し、持続させるため様々なテクニックが用いられます。恐怖心を呼び起こす小道具や効果音を巧みに用い、ラストシーンは解決されたと思わせ、一転して最悪の恐ろしい場面で終わります。神や仏が助けを差し伸べられず、悪霊が凄まじい力を発揮し、人の心身を破壊するというホラーの定番ストーリーです。

 

 

しかし、もし、「呪怨」の伽椰子や「リング」の貞子が、神仏の大いなる愛に触れ、恨みを忘れ、人々を助ける善霊になるというストーリーに変われば、立派な宗教映画になってしまいます。ホラーは憎しみと復讐の霊現象を強調し、宗教は愛と許しの霊現象を尊いものとします。両者は、紙一重のちがいです。

 

 

ホラーは人気があり、テレビのホラー特集は高視聴率を獲得できる番組です。特に夏には毎日のようにホラー番組があります。宗教が手ばなしに受け入れることはできないものですが、霊的なものを一切受け容れないという唯物的考えよりも宗教にちかく、救いがあるのではないでしょうか。ですから、宗教者は、ホラーのなかにある宗教性を論じることによって、ホラーファンを、清らかな霊性をもつ宗教のほうに導くことができると思います。

 

f:id:heiwasennryaku:20190607073611j:plain

増上寺がおこなったホラーの宗教への取り込み

 

 

2015年、芝増上寺が毎年行っているフェスティバルでは、「お化け屋敷」を設けました。それも一流の仕掛人による、本格的な怖いお化け屋敷です。お寺がどうしてお化け屋敷なのでしょうか。日本の伝統的おばけは、「悪」ではなく「悪の犠牲者」です。もともと不幸な善人で、自分を苦しめ殺害した悪人に恨みをはらしますが、神仏に挑戦したり、関係のない人に災いを及ぼしたりはしません。反キリストの西洋の悪魔とはちがいます。ですから、「おばけ」は仏教が取り込むことができるのです。

 

 

仏教が「お化け屋敷」をすれば、お寺に大勢の人が集まり、ほかの催しや展示とも接し、仏教と人々とのこころの距離を縮められます。このような企画は、仏教の寛大さと柔軟さを発信し、仏教的価値観の社会への浸透も促進します。

 

 

一方、日蓮宗の僧侶で、「怪談和尚」と言われる三木大雲師は、自身も幼いころ霊的体験をし、京都の公園で、若者に怪談話からはじめ、徐々に仏教を語り宣教の成果をあげました。三木師は「私が布教してきた若者たちが、現在お寺に集うのは、ただ霊というものに執着しているからでは決してありません。目に見えない世界から、今生きている世界を見始めたからなのです」と言います。

 

 

宗教は、人々を信仰に導き救済するため、怪談も利用していいと思います。宗教者は、あらゆる霊性表現の宗教的意味をとらえ、宗教と共存させ、より多くの人を、宗教的な善の世界に誘導すべきです。

 

 

●応援クリックをお願いします。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村