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中天に輝くキリシタンの栄光・信長はここまでキリスト教を優遇した !

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信長は天皇が求めても献上しなかった安土城屏風絵を宣教師に与えた

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-11》    

 

永田正治(Masaharu Nagata) 

    

キリスト教宣教師を公家と同等に扱った「馬揃え」

 

村重謀反の翌年、イエズス会の巡察師アレクサンドル・ヴァリニャーノが来日しました。彼はイタリア貴族出身、長身、端正な顔立ちで、すぐれた見識を兼ねそなえた傑物でした。東洋での宣教活動をとり仕切る大きな権限をもち、日本教会の規律を定め、宣教地区を五畿内、豊後、下(豊後以外の九州地域)の3地域に分けました。また有馬に神学校セミナリヨ、府内に聖職者を育成するコレジョ、臼杵に修練院を設立するなど、教育機関を整え、大村純忠から、長崎と茂木の寄進を受けたのです。

 

 

天正9年(1581)2月、ヴァリニャーノは帰国に先立ち、信長に挨拶するため、フロイスらを伴って京都へ赴きました。信長は、巡察師を長時間にわたり会見し、手厚くもてなし、巡察師と在京の宣教師を、京の市中で行なわれる「馬揃え」に招待しました。馬揃えとは、信長の威光を誇示するため、武将らが華麗な衣装をまとい、飾り具を付けた馬に乗って行なう軍事パレードで、これを一目見ようと、諸国から20万人にものぼる群集が集まったといいます。

 

 

天皇、公家、高位の僧侶が招待されるなかで、ヴァリニャーノら宣教師も貴賓として特設の場が設けられ、格別の待遇でもてなされたのです。信長は、行事の途中、巡察師が献上した金の装飾を施した深紅の椅子、まさに「玉座」に座り、自らが優越した存在であるということを人々に見せつけました。

 

 

馬揃えの行事は信長の権威を示す行事でしたが、キリスト教の栄光をあらわす絶好の場にもなりました。最も権勢ある人物が、天皇や権威ある人々とともに、宣教師たちを貴賓として招待した事実は、キリスト教の宣教師が当時の階層秩序のなかで極めて高い地位を獲得したことを意味し、天下に示され、その名誉はキリシタン全体におよびました。

 

 

 

安土城で極まった信長のキリスト教優遇

 

夏になり、ヴァリニャーノは安土城を訪れました。信長は歓待し、おおくの使者に城と宮殿を案内させ、彼自ら3度も姿を見せ、宣教師たちと長時間会談しました。盆の日に、信長は、巡察師に見せるため、天守閣を提灯でライトアップさせ、城から下る道に、たいまつを持った群衆を両側に配列させ、そのあいだを若侍と兵にたいまつを振りかざして疾走させたのです。まさに、信長らしい奇抜なパフォーマンスで、いやがうえにも、安土城の主人とキリスト教宣教師の強固な結びつきを印象付けました。

 

 

巡察師が別れの挨拶に行くと、なんと、信長は、大事にしていた安土城を描いた屏風を与えました。これは狩野永徳安土城を中心に町の全体を精巧に描いた逸品で、天皇が所望しても献上しなかったものです。ヴァリニャーノは感激し、ローマ教皇への贈物とするといいました。そして、ヴァリニャーノ一行の帰路、多くの貴人が安土屏風を見るために集まったので、京都、堺、豊後などで公開したのです。この出来事は、信長のキリシタンへの格別な好意を、強烈なインパクトをもって、再び天下に知らしめました。

 

 

歴史には驚くべき瞬間がありますが、ヴァリニャーノ巡察師の畿内訪問中における馬揃えと、安土城での一連の出来事は、日本史のなかでも特筆すべき「奇観」であると思います。まさにこれは、信長という特異な個性と異文明の宗教が接触し、スパークして強い光を放った光景と言えます。

 

 

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おそらく天正少年遣欧使節は日本が送った使節の中で最もインパクトが大きかった使節

 

 

天正少年遣欧使節という、「東方の三王国」のキリストの証人

 

ヴァリニャーノは大成功した畿内訪問の帰路、壮大な計画を発案します。それは、4人のキリシタン少年をローマ教皇への使節として派遣することで、しかも、九州のキリシタン大名である、大友、有馬、大村の「三人の王」の名代という使節です。

 

 

大名の子が使節になれば「王子」であり理想的ですが、大名が危険な旅に子息を送り出すはずはありません。ヴァリニャーノは、大名の親族の中から4人の少年を見出し、使節としますが、彼らは、ヨーロッパで、王子でもないのに、「王子」をはるかに超える、最高の待遇で迎えられたのです。これが「天正少年遣欧使節」です。

 

 

ヴァリニャーノはインドのゴアまで少年達を連れて行きますが、そこでインド管区長に任命され、インドからは宣教師メスキータ(ユダヤ系)が少年達を連れて行くことになりました。少年達は長い旅のあいだ、宣教師からキリスト教教理と、イタリア語、スペイン語ポルトガル語などの語学、音楽やヨーロッパの礼儀作法などの教育を受け、使節に相応しい教養を身につけます。

 

 

この少年使節は、ヨーロッパのカトリック諸国からセンセーショナルな出来事として注目され、驚くべき大歓迎を受けました。当時のカトリック教会は宗教改革の影響で、イギリスやヨーロッパ北部を失い、プロテスタントの凄まじい勢力拡大に悩まされていました。そこへやって来たのが、カトリックを受容した「東方の三王国」から派遣された王子たちですリスボンに着いた使節は、スペイン国王フェリペ2世をはじめ、通過する地域の諸侯に最高の待遇でもてなされ、ローマ教皇庁では、国王に対する儀礼で迎えられたのです。

 

 

1585年の3月、教皇グレゴリウス13世は公式会見し、そのとき教皇は涙を流しました。東洋伝道の成果を示すこの会見は、グレゴリオ暦(太陽暦)を採用し、聖職者教育機関の整備、アジア、アメリカ大陸の布教に力を注いだ教皇の最後の栄光となり、翌月、83才で他界したのです。

 

 

教皇のシスト5世は、少年使節と会見し、彼らに即位の儀式に名誉ある役を与え、祝祭の主賓としました。教皇がラテラノ教会に赴く行列にも加わり、この時の行幸図には4人の姿が目立つように描かれています。

 

 

この使節は様々なことを象徴しています。ローマ・カトリック教会が宣教師たちに託した願いは、まさにこのような瞬間を迎えるためでした。大帝国スペインにとっても、世界進出を正当化する、聖なる使命の成果がこの使節によって証明されたのです。そのため、教皇は涙し、ヨーロッパ世界最強の君主であるフェリペ2世は、使節を起立して迎え、ひざまずく儀礼を押しとどめて、親しく抱擁したのです。

 

 

一方、使節を送り出した日本側も、権力者信長がヴァリニャーノを国賓に対するような待遇でもてなし、貴重な安土城を描いた屏風を教皇への贈物としました。使節を送った3大名も、幾多の試練を克服し信仰を貫いたカトリック信者でした。しかも、帰国した使節を太閤秀吉は正式使節として認め歓待したのです。少年使節ローマ教皇に派遣した正式の日本国使節だったのです。

 

 

使節は、新・旧キリスト教の対立という背景、しかも教皇交代期にやって来たので、ことさら喧伝されましたが、これはアジアとヨーロッパ間の、宗教を中心とした壮大な交流であり、しかもヨーロッパ側が切実に望むものでした。また、日本が過去、外国に送った使節で、これほど多くの国々から強い関心が向けられ、熱い歓迎を受けた使節はなかったと思います。

 

 

この天正遣欧使節の経緯をみても、戦国脱亜というものが、ヨーロッパ・カトリック教圏の世界への進出がきっかけとなり、それを受け止めた信長とキリシタン大名、そして信者達の協働という、国際的背景を持つものであったことが分かります。

 

 


 
キリシタンの王国・戦国脱亜の背景

 

信長と他のキリシタン大名では、その力量と影響力は隔絶していました。大村純忠有馬義貞は、竜造寺隆信など宿敵の脅威に直面しており、大きな利益を与えてくれる南蛮貿易と南蛮の武器に領国の保全を頼っていました。大友宗麟は強力な武将でしたが、宗麟のキリスト教保護は、妻をはじめとする反対派、それと結びついた仏教、神道勢力による妨害に悩まされ、外からは薩摩島津家の脅威にさらされました。

 

 

信長の力と威光は圧倒的で、彼のキリスト教保護は、身内と軍団はもとより、その勢力圏であれば、朝廷や仏教教団などの伝統勢力も反抗できませんでした。信長への恐れが反対を封殺したのです。信長勢力圏は、専制的権力者の格別な庇護を受け、キリスト教徒が何者も恐れず宣教ができた「キリシタン王国」だったのです。

 

 

フロイスは「日本覚書」のなかで、「われらは何にもまして悪魔を嫌い憎む。仏僧らは悪魔を敬い礼拝し、悪魔のために寺院を建て、またこれにたいそうな犠牲を捧げる」と記しています。これが宣教師の仏教観で、その影響を受けたキリシタン大名たちは、領民にキリスト教への改宗を迫り、仏教と神道を排除し、神社仏閣を破壊したのです。偶像破壊と強制改宗はヨーロッパでは盛んに行われましたが、宗教のあり方が異なる日本でこのような布教が可能だったのは、それが信長の思想に反することではなかったからです。後に、日本的宗教観を持つ秀吉は、この宣教方法を問題としキリスト教を禁止することになります。

 

 

アジア伝来の仏教は、神道を排除することなく、融和して日本に深く根を下ろし、古来の日本とアジア文明を融合させました。ところが、ヨーロッパから伝来したキリスト教は、仏教や神道との共存を拒否し、キリシタン勢力圏は、非アジア的、非日本的な世界を形成したのです。それと、覇者信長の伝統的価値観を否定する意識が共鳴しました。これが戦国脱亜の思想的背景と言えます。

 

 

 

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