サンクチュアリ通信BLOG 平和戦略

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秀吉の朝鮮侵攻の発案は「西洋弱肉強食の国際政治」から

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西洋国際政治は日本にとっては危険思想だった

 

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-12》

 

永田正治(Masaharu Nagata)

 


●ズバリ!他国侵攻は、信長が、西洋弱肉強食の国際政治から学んだ

 

フロイスは、信長と何度も会い長時間談話し、世界の情報を伝えました。しかし、フロイスが著した『日本史』には情報の具体的内容についてほとんど書かれていません。彼は、信長の死の翌年から『日本史』を書き始めましたが、執筆中にキリシタンをめぐる情勢は激変し、読み手が誰であれ、書くと都合が悪い内容が多くなりました。とくに、暴君であった信長と宣教師の「蜜月関係」の詳細は、もっとも書けない部分だったと思います。

 

 

フロイスは、日本の宗教、政治、国民性まで鋭く観察していた人物です。その優れた視点で、地球儀と世界地図を用い、信長に大航海時代の世界のあり様を伝えました。特に、ローマ教皇の高い権威と諸国の君主との関係、カトリック君主の強力な王権、諸国間の戦争と外交、またスペインの南米征服とポルトガルの東洋進出などについては詳しく伝えたに違いありません。フロイスが旅行のみやげ話しのようなことばかり話していた訳はなく、質が高く、核心的で、信長の未来戦略案出に有用な情報を提供したからこそ、信長は彼を好んだのです。

 

 

本能寺の変があった1582年、フロイスイエズス会総長への書簡で、信長は全国統一後に大艦隊を編成し中国を征服する構想をもっていたと報告しています。信長どうしてそんな考えを持つに至ったのでしょうか。少なからぬ研究者が、宣教師が信長に中国侵略を勧めたという「イエズス会陰謀説」を主張します。しかし、もっと単純な流れがあったと思います。信長に「国際政治」を教えたフロイスはヨーロッパの住人でした。フロイスが信長にことさら中国侵略を勧めなくとも、ヨーロッパ国際政治をアジアに適用すれば、中国を侵略するという発想は容易に導き出されるのです。

 

 

ヨーロッパの国際政治は「力」がものをいい、強国が覇を握り、弱体な国家は独立を維持することはできませんでした。諸国は常に周辺国の動向に注視し、軍事力増強と外交に力を注ぎました。1578年(天正6年)、すなわち信長が死ぬ4年前、フロイスの祖国ポルトガルでは、セバスティアン王がモロッコの王位継承問題に介入し、アフリカ遠征を行ないます。この遠征は失敗して、王は戦死し、2年後、今度はポルトガルが王位継承問題に付け込まれ、スペインに併合されてしまいます。このようにヨーロッパの国際政治では、他国に少しの隙でもあれば、軍事、或いは外交的介入をし、支配するのが普通のことでした。このようなヨーロッパの弱肉強食の国際政治をありのままに伝えても、アジアにとっては、危険な侵略の思想になり得るのです。

 

 

当時の東アジアでは、中華帝国は周辺国が儀礼的な臣従さえすれば満足し、朝貢して貢物をよこせばそれ以上のものを与えました。その背景には、国家間の関係にも「礼」を重んじる儒教の思想があります。特に、明朝と朝鮮王朝はともに儒教を篤く尊崇する国家で、双方を礼の国と認め、長く平和的関係を維持したのです。日本もそのような国際秩序のなかで平和を享受しました。 

 

 

中国を征服するには、まずこのような東アジア国際関係の常識を打ち破らなければなりません。そしてヨーロッパ伝来の新兵器である鉄砲の威力と、中国を尊重する意識からの自由、他国を侵略することへの躊躇がなくなる必要があります。 

 

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近代的世界観が中国中心の秩序意識を打破した


ヨーロッパの科学技術が生んだ鉄砲は、信長が実戦に活用しました。中華王朝を中心に戴く伝統的国際秩序を尊重する意識は、もっと大きな世界があり、強力なヨーロッパが存在するという、宣教師が伝えた近代的世界認識で転換しました。信長の、他国を征服するという発想の背後には、ヨーロッパ国際政治の情報がありました。文禄・慶長の役には、このようなヨーロッパ世界から流入した情報と技術が、大きな背景として存在したのです

 


 
キリシタン禁教・南蛮ブーム・唐入り


 
信長の死後5年間は、秀吉が信長のキリシタン政策を継承したので、宣教師は自由に活動ができました。しかし、天正15年(1587)、秀吉は突如、バテレン追放令を出します。これはキリスト教の部分的禁令でした。宣教師たちを国外に追放し、キリシタン大名など地位の高い人物の信仰は禁じましたが、庶民が信仰することは黙認したのです。

 

 

バテレン追放令」の1条は「日本は神国で、キリシタン国より邪法を布教することは、はなはだ良からぬことである」、二条は「大名が領地の者を奨めて門徒とし、神社仏閣を破壊しているが、前代未聞である。-」としており、発令の動機がキリスト教国家とキリスト教、またその宣教方法に対する不信であることが分かります。

 

 

これを見ると、信長と秀吉のキリスト教に対する考えの違いが明らかです。信長はバテレンを好み彼らの知識とその背後にあるヨーロッパ文明に関心をもち、神社仏閣の破壊は問題にしませんでした。秀吉は、ヨーロッパにも宣教師の知識にも関心を持ちませんでした。しかし、「人たらし」と言われたようにキリシタンに対しても愛想よく振る舞ったので、信長より御し易しと思い、宣教師たちはつい言動が大胆になってしまいました。西洋人には秀吉の「腹芸」が判らなかったのです。

 

 

宣教師コエリョは、自分たちは九州のキリシタン大名を動員できると豪語し、追放令の発せられる9日前には、日本船では太刀打ちできない強力な小型軍艦(フスタ船)を誇らしげに秀吉に見せています。これらは秀吉の歓心を買おうとしたものでしたが、それどころか極めて危険なことでした。しかも秀吉は、九州遠征で、当地におけるキリシタ勢力が強いこと、また大村純忠が長崎をイエズス会に寄進した事実を知っていました。

 

 

フスタ船に乗り込んで気さくに振舞っていた秀吉が、その直後に、突然バテレン追放令を発したことは宣教師たちにとっては青天の霹靂でした。しかし、追放令は徹底したものではなかったので、キリスト教は一時的に打撃を受けましたが、試練に耐えさらに発展を続けました。

 

 

天正19年(1591)、ヴァリニャーノがポルトガル領のインド副王の使節として、使命を終えた少年遣欧使節を連れて来日します。秀吉は、彼らを正式使節として認め、聚楽第で盛大に歓迎し、始終上機嫌で、4人の少年が歌うグレゴリオ聖歌に聞きほれ、3度も繰り返し歌わせました。

 

 

この時の使節一行の、行列の華麗さが群衆を魅了しました。彼らはヨーロッパの王室、貴族から贈られた最高級の衣服を身にまとい、洋式馬具をつけたアラビア馬をはじめ、豪華な贈物とともに整然と聚楽第にむかったのです。当時、南蛮文物は大量に日本に流入し、高級品として扱われていましたが、人々がこれほど豪華な南蛮文化のパノラマを目のあたりにするのは初めてのことでした。

 

 

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戦国脱亜は「南蛮の時代」を意味した

 

秀吉はバテレンを追放しても南蛮貿易は奨励したので、ヨーロッパの文物はポルトガル船でどんどん持ち込まれました。それらは高価で取引され、人々は争って購入しました。この南蛮ブームは庶民にまでおよび、当時を「南蛮の時代」と称してよいほど、この異国趣味は高揚したのです。

 

 

南蛮の文物のなかには、ロザリオ(十字架がついたカトリックの数珠)などのキリスト教関係の品物も多く含まれおり、南蛮ブームは文明をおなじくするキリスト教拡大の温床になりました。禁令下にもかかわらず、秀吉統治時代に全国のキリシタン数は、15万人から2倍の30万人に増加したのです。

 

 

慶長1年(1596)、浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂流して入港し、ひとりの船員が役人に世界地図を指し、スペインの領土が広大であること、スペインは「まず宣教師を送り布教し、その後軍隊を派遣してその国を征服する」と言ったことが秀吉に報告されました。そして起こったのが「26聖人殉教」です。外国人宣教師9人と日本人信徒17人が京都で捕らえられ、長崎で磔刑にされました。この処刑はキリシタンに警告を与え、人々の見せしめにする意図で行われましたが、26人の殉教はかえってキリシタンの信仰を高揚させたのです。

 

 

文禄1年(1592)、秀吉は文禄・慶長の役を起こしました。この戦争は朝鮮半島で戦われましたが目的は中国征服でした。秀吉の中国征服の意思は、信長死亡の3年後である天正13年(1585)には、側近に表明していたことが史料で確認されます。この時は、秀吉の覇権が確立してから幾ばくも経ておらず、秀吉は信長の中国征服構想を知り、それを踏襲したと考えるべきです。

 

 

「戦国脱亜」は、当時としては、極めて特殊な中国観をもつ権力者が、中国征服を行なうため朝鮮に侵攻し、明と戦い、中華帝国と修復不可能な亀裂をつくった国家の行動として展開しました。秀吉は、慶長の役のとき兵士の戦功を確認するため、倒した敵兵の鼻を切り日本に送らせました。それらが収められているのが京都の耳塚です。また、多くの韓国の人々を奴隷として連行し日本で売りさばいたのです。

 


 
秀吉が死に、日本軍は朝鮮半島から撤退します。その後、再侵攻を考えた人物はいません。日本にとって外国に軍を派遣することは、およそ1000年も前に百済支援のため朝鮮半島に兵を出したとき以来のことでした。まして侵略戦争を行なったのは歴史はじまって以来のことだったのです。

 

 

島嶼独立国家にとって外国侵略はその伝統から大きく逸脱するものでした。どんな勇猛な戦国武将でも外国に行って戦うことなど夢にも思わないことなのです。それを早くから考えていた唯一の人物が織田信長です。秀吉の「唐入り」の発想は、彼が神のごとく崇め従った信長から学んだことだったのです。

 

 

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