サンクチュアリ通信BLOG 平和戦略

世界平和戦略、日本の国家戦略から、宗教、歴史、政治など、さまざまな分野を幅広くあつかうBLOGです。 分かりやすく、面白い、解説に努めます。

Оsaka・G20と反グローバリズム世界革命

 

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大阪G20は反グローバリズム国家群が主導する

 

           

昨年10月に、反グローバリズムに立つボルソラノ大統領が誕生したブラジルの国旗を掲げました。 (PC版)

 

 

永田正治(Masaharu Nagata)

 

 

グローバリズム体制は凋落期を迎えた

 

28日から開催される、大阪G20は、香港で「逃亡犯条例」の改正に反対する大規模デモが行われている情勢で開催されます。20カ国首脳のなかで最も居心地の悪い人物は中国の周近平主席にちがいありません。反対に、最も、意気揚々とした気持ちで日本に来るのは、外交で成果を上げている、アメリカのトランプ大統領でしょう。

 

 

米・中は、激しい貿易戦争を繰り広げ、中国経済は急速に弱体化し、周主席は、香港問題と貿易問題という重い二重苦を負います。中国経済の不振は、中国と強い経済関係をむすぶドイツを直撃します。ドイツと中国は、グローバリズムを推進する、西洋と東洋の二大国家です。

 

 

反グローバリズムの立場から見るとき、大阪G20は、グローバリズム反グローバリズムのパワーが交差する画期的首脳会議になりそうです。グローバリズムが凋落し、反グローバリズムが力強く勃興する歴史的転換点です。

 

 

わずか、2年半前、トランプ大統領当選まで、反グローバリズムの勃興など、少数者の、幻のような、遠い期待でした。トランプ大統領の登場で、世界の流れは一変しました。世界の歴史に、こんな革命があったでしょうか。少数の変革を望む人々が絶望的戦いをしていたら、ある一人の指導者の登場によって、世界の動きが逆転し、一挙に展望が開けました。そして、今や、反グローバリストの人々は強い自信と希望を抱いています。

 

 

しかし、また、あまりに急激な変化なので、圧倒的多数の人々は、この変化の意味がさっぱり分かりません。おおくの官僚から学者、一般人まで、世界で反グローバリズムの変革が急速に進んでいることにまだ気づいていないのです。というより、今でも人々はグローバリズムがいいものだと信じています。

 

 

2014年に、中野剛志氏はこう指摘しました。グローバル資本主義新自由主義は、社会格差を広げ、社会のあり方を崩壊させ、国家の自律性も失わせ、経済成長すらも実現しない。しかも、絶えず危機が続く。しかし、これほど問題だらけで、理論的にも空疎なしろものを、アメリカ、ヨーロッパ、そして、日本のエリートたちも支持し続けています」(グローバリズムが世界を滅ぼす』文芸春秋)。残念ながら、中野氏の5年前の指摘は、現在もあてはまるのです。しかし、おそらく、この状態が音を立てて崩れる時は目前に迫っています。

 

 

反グローバリズム革命の拡大は、少数者から、一気に世界最強国家のトップ、そして、各階層に広がっています。そのあり方を、G20を構成する諸国家の動向から見てみましょう。

 

 

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G20国家の動向は反グローバリズムの趨勢を示す

 

 

◎ 国家の方向性、あるいは指導者が反グローバリズムに立っている国家

 

アメリカ (トランプ大統領)

 

ロシア (プーチン大統領)

 

イギリス (EU離脱)

 

ブラジル (2018年10月、反グローバリズムを標榜するボルソラノ大統領当選)

 

オーストラリア (今年の4月、反グローバリズムを標榜するスコット・モリソン首相の総選挙勝利)

 

 

トランプ大統領と思想を同じくする指導者、また、将来反グローバリズムに立つ可能

 性が高い国家

 

日本 (安倍首相がトランプ大統領と極めて良好な関係を維持)

 

アルゼンチン (南米は反グローバリズム的な傾向をもち、ブラジルに続く可能性が高い)

 

フランス  (5月のEU総選挙で反グローバリズムのルペン氏率いる「国民戦線」が勝利。EU総選挙の結果は今後の政治動向に大きな影響をおよぼす)

 

イタリア  (EU総選挙で反グローバリズムのサルヴィーニ氏率いる「同盟」が勝利)

 

トルコ  (EU加盟を目指す政策を放棄し、独自の路線を選択し、反グローバリズムに立つ可能性が大)

 

 

グローバリズム体制を維持する国家、国家連合
    (反グローバリズムの視点からはこの国家群が最大の問題国)

 

EU (世界最大のグローバリズム組織)

 

ドイツ (EUを支える強大国)

 

中国 (グローバリストによって立てられ発展した国家)

 

韓国 (文在寅大統領が、中国、北朝鮮と関係を強化している)

 

 

◎ 中間的立場の国家(しかし、反グローバリズムの方向に向かうと思われる)

 

カナダ


メキシコ


南アフリカ


インドネシア


サウジアラビア

 

インド

 

 

EUは解体に向かうか?

 

EUという「ドイツ帝国」と、そのヨーロッパ覇権構造

 

 

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イギリスに続きフランス、イタリアが離脱すればEUは解体する

 

 


反グローバリズムの観点からG20の国家構成をみると、もはや、反グローバリズムの優勢は明らかです。次に、反グローバリズムの目指すものは、世界最大のグローバル国家連合であるEUの解体です。EUの現状を、反グローバリズムの代表的知識人エマニュエル・トッド氏のドイツ帝国が世界を破滅させる』 (文芸春秋.2015)から整理してみましょう。

 

トッド氏によれば、ドイツは、事実上、EUを足場に、全ヨーロッパに君臨するドイツ帝国をつくり上げたとします。まさに、ヒットラーが戦争で果たせなかったことを、現代のドイツは経済力で成し遂げたのです。

 

これは、国境を越えて「ヒト」、「モノ」、「カネ」が自由、大量に行きかうシステムでは、最強の者が一人勝ちし、多数者が隷属することになるグローバリズムの現実が如実に表れたものです。下に提示した国家群一覧は、トッド氏が、2015年における、ヨーロッパのドイツの覇権構造を図で示したものを、分類したものです。ここでは実態を明確にするため「ドイツ帝国」という用語を使います。

 


ドイツ帝国圏といえる国家群

 

ドイツ


ベルギー


オランダ


ルクセンブルグ

 

スイス


チェコ


オーストリア


スロベニア


クロアチア

 

 

ドイツ帝国に自主的に隷属する国家

 

フランス 

 

◎ ロシア嫌いのドイツ帝国の衛星国

 

ポーランド


スウェ―デン


リトアニア


ラトビア

 

エストニア

 

 

◎ 事実上のドイツ帝国の被支配国家

 

スペイン


ポルトガル


フィンランド

 

デンマーク


アイルランド


ギリシャ


ルーマニア


スロバキア

 

 

ドイツ帝国に合併途上の国家

 

ウクライナ


グルジア

 

セルビア

 

スロバキア

 

マケドニア

 

アルバニア

 

モンテネグロ

 

ボスニアヘルツェゴビナ

 

 

ドイツ帝国から離脱途上の国家

 

イギリス


ハンガリー

 

 

● かつてなかった面白い時代

 

そもそもEU(欧州連合)結成の影の推進者はバチカンでした。1990年に、ドイツが統一され、統一ドイツの巨大な国力を怖れた、超国家的宗教であるバチカンカトリックが、ドイツを一つのグローバル組織に加え、縛りつけるために、強力に推進したものです。そこには、旧東ドイツ地域にはプロテスタン住民が多く、統一ドイツはプロテスタントの比重が大きくなるという危惧もありました。結局、ドイツは積極的にEU結成を推進しました。しかし、東ドイツプロテスタント牧師の娘であるメルケル首相の時代に、ドイツはEUの主導権を握りました。実に、アイロニーに富んだ展開です。

 

 

しかし、2016年には、イギリス国民がEU離脱を選択しました。5月にEU議会選挙が行われましたが、 フランスでは、反グローバリズムに立つルペン氏が率いる「国民戦線」が勝利し、第一党になり、イタリア では、やはり、反グローバリズムのサルヴィーニ氏の「同盟」が大きく躍進しました。EU議会選挙の結果は、後の各国の選挙に強く影響をおよぼします。フランスイタリアで、反グローバリズム政党が、この余勢を駆って国内選挙で勝利すれば、この二大国は、イギリスの後を追いEUを離脱します。その時、EUは解体し、終焉を迎えます。

 

 

グローバリズムをめぐる状況で、興味深いのは、世界ではこのように急速に反グローバリズムの動きが進展しているにもかかわらず、いまだに圧倒的多数の人々が、グローバリズムを常識のように良いものだと思っていることです。

 

 

反グローバリズムの立場で、ワシントンを拠点に評論活動をしている伊藤貫氏は、今の時代は、「かつてなかった面白い時代」と言いました。伊藤氏だけでなく、反グローバリズムの人々はよくそう言い、この思いは共通認識です。圧倒的多数の人々はこの世界の大潮流を知らず。極少数の自分たちが、知ってしまっている。それが不思議で、面白いのです。

 

 

しかし、反グローバリズムに立つ私たちは安心することはできません。この流れを妨げようとするグローバリストが存在するからです。彼らはこの世界を「金」「情報操作」で支配しています。日本の政界、財界、マスコミはグローバリストの巣窟です。彼らの力は巨大です。ですから、今でも「反グローバリズム」の論調は、禁句のようにメディアには登場できません。

 

 

反グローバリズムに目覚めた私たちは、グローバリズムの弊害を人々に訴え、隣人に伝える使命を持ちます。各国がしっかりした主権意識をもち、一握りのスーパーリッチの支配をくつがえし、伝統的精神と伝統文化を大事にし、他国のそれを尊重し、そのうえで、平等で、真にインターナショナルな関係を深める世界を築かなければなりません。私たちには大きな歴史の流れが共にあります。

 

 

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秀吉の朝鮮侵攻の発案は「西洋弱肉強食の国際政治」から

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西洋国際政治は日本にとっては危険思想だった

 

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-12》

 

永田正治(Masaharu Nagata)

 


●ズバリ!他国侵攻は、信長が、西洋弱肉強食の国際政治から学んだ

 

フロイスは、信長と何度も会い長時間談話し、世界の情報を伝えました。しかし、フロイスが著した『日本史』には情報の具体的内容についてほとんど書かれていません。彼は、信長の死の翌年から『日本史』を書き始めましたが、執筆中にキリシタンをめぐる情勢は激変し、読み手が誰であれ、書くと都合が悪い内容が多くなりました。とくに、暴君であった信長と宣教師の「蜜月関係」の詳細は、もっとも書けない部分だったと思います。

 

 

フロイスは、日本の宗教、政治、国民性まで鋭く観察していた人物です。その優れた視点で、地球儀と世界地図を用い、信長に大航海時代の世界のあり様を伝えました。特に、ローマ教皇の高い権威と諸国の君主との関係、カトリック君主の強力な王権、諸国間の戦争と外交、またスペインの南米征服とポルトガルの東洋進出などについては詳しく伝えたに違いありません。フロイスが旅行のみやげ話しのようなことばかり話していた訳はなく、質が高く、核心的で、信長の未来戦略案出に有用な情報を提供したからこそ、信長は彼を好んだのです。

 

 

本能寺の変があった1582年、フロイスイエズス会総長への書簡で、信長は全国統一後に大艦隊を編成し中国を征服する構想をもっていたと報告しています。信長どうしてそんな考えを持つに至ったのでしょうか。少なからぬ研究者が、宣教師が信長に中国侵略を勧めたという「イエズス会陰謀説」を主張します。しかし、もっと単純な流れがあったと思います。信長に「国際政治」を教えたフロイスはヨーロッパの住人でした。フロイスが信長にことさら中国侵略を勧めなくとも、ヨーロッパ国際政治をアジアに適用すれば、中国を侵略するという発想は容易に導き出されるのです。

 

 

ヨーロッパの国際政治は「力」がものをいい、強国が覇を握り、弱体な国家は独立を維持することはできませんでした。諸国は常に周辺国の動向に注視し、軍事力増強と外交に力を注ぎました。1578年(天正6年)、すなわち信長が死ぬ4年前、フロイスの祖国ポルトガルでは、セバスティアン王がモロッコの王位継承問題に介入し、アフリカ遠征を行ないます。この遠征は失敗して、王は戦死し、2年後、今度はポルトガルが王位継承問題に付け込まれ、スペインに併合されてしまいます。このようにヨーロッパの国際政治では、他国に少しの隙でもあれば、軍事、或いは外交的介入をし、支配するのが普通のことでした。このようなヨーロッパの弱肉強食の国際政治をありのままに伝えても、アジアにとっては、危険な侵略の思想になり得るのです。

 

 

当時の東アジアでは、中華帝国は周辺国が儀礼的な臣従さえすれば満足し、朝貢して貢物をよこせばそれ以上のものを与えました。その背景には、国家間の関係にも「礼」を重んじる儒教の思想があります。特に、明朝と朝鮮王朝はともに儒教を篤く尊崇する国家で、双方を礼の国と認め、長く平和的関係を維持したのです。日本もそのような国際秩序のなかで平和を享受しました。 

 

 

中国を征服するには、まずこのような東アジア国際関係の常識を打ち破らなければなりません。そしてヨーロッパ伝来の新兵器である鉄砲の威力と、中国を尊重する意識からの自由、他国を侵略することへの躊躇がなくなる必要があります。 

 

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近代的世界観が中国中心の秩序意識を打破した


ヨーロッパの科学技術が生んだ鉄砲は、信長が実戦に活用しました。中華王朝を中心に戴く伝統的国際秩序を尊重する意識は、もっと大きな世界があり、強力なヨーロッパが存在するという、宣教師が伝えた近代的世界認識で転換しました。信長の、他国を征服するという発想の背後には、ヨーロッパ国際政治の情報がありました。文禄・慶長の役には、このようなヨーロッパ世界から流入した情報と技術が、大きな背景として存在したのです

 


 
キリシタン禁教・南蛮ブーム・唐入り


 
信長の死後5年間は、秀吉が信長のキリシタン政策を継承したので、宣教師は自由に活動ができました。しかし、天正15年(1587)、秀吉は突如、バテレン追放令を出します。これはキリスト教の部分的禁令でした。宣教師たちを国外に追放し、キリシタン大名など地位の高い人物の信仰は禁じましたが、庶民が信仰することは黙認したのです。

 

 

バテレン追放令」の1条は「日本は神国で、キリシタン国より邪法を布教することは、はなはだ良からぬことである」、二条は「大名が領地の者を奨めて門徒とし、神社仏閣を破壊しているが、前代未聞である。-」としており、発令の動機がキリスト教国家とキリスト教、またその宣教方法に対する不信であることが分かります。

 

 

これを見ると、信長と秀吉のキリスト教に対する考えの違いが明らかです。信長はバテレンを好み彼らの知識とその背後にあるヨーロッパ文明に関心をもち、神社仏閣の破壊は問題にしませんでした。秀吉は、ヨーロッパにも宣教師の知識にも関心を持ちませんでした。しかし、「人たらし」と言われたようにキリシタンに対しても愛想よく振る舞ったので、信長より御し易しと思い、宣教師たちはつい言動が大胆になってしまいました。西洋人には秀吉の「腹芸」が判らなかったのです。

 

 

宣教師コエリョは、自分たちは九州のキリシタン大名を動員できると豪語し、追放令の発せられる9日前には、日本船では太刀打ちできない強力な小型軍艦(フスタ船)を誇らしげに秀吉に見せています。これらは秀吉の歓心を買おうとしたものでしたが、それどころか極めて危険なことでした。しかも秀吉は、九州遠征で、当地におけるキリシタ勢力が強いこと、また大村純忠が長崎をイエズス会に寄進した事実を知っていました。

 

 

フスタ船に乗り込んで気さくに振舞っていた秀吉が、その直後に、突然バテレン追放令を発したことは宣教師たちにとっては青天の霹靂でした。しかし、追放令は徹底したものではなかったので、キリスト教は一時的に打撃を受けましたが、試練に耐えさらに発展を続けました。

 

 

天正19年(1591)、ヴァリニャーノがポルトガル領のインド副王の使節として、使命を終えた少年遣欧使節を連れて来日します。秀吉は、彼らを正式使節として認め、聚楽第で盛大に歓迎し、始終上機嫌で、4人の少年が歌うグレゴリオ聖歌に聞きほれ、3度も繰り返し歌わせました。

 

 

この時の使節一行の、行列の華麗さが群衆を魅了しました。彼らはヨーロッパの王室、貴族から贈られた最高級の衣服を身にまとい、洋式馬具をつけたアラビア馬をはじめ、豪華な贈物とともに整然と聚楽第にむかったのです。当時、南蛮文物は大量に日本に流入し、高級品として扱われていましたが、人々がこれほど豪華な南蛮文化のパノラマを目のあたりにするのは初めてのことでした。

 

 

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戦国脱亜は「南蛮の時代」を意味した

 

秀吉はバテレンを追放しても南蛮貿易は奨励したので、ヨーロッパの文物はポルトガル船でどんどん持ち込まれました。それらは高価で取引され、人々は争って購入しました。この南蛮ブームは庶民にまでおよび、当時を「南蛮の時代」と称してよいほど、この異国趣味は高揚したのです。

 

 

南蛮の文物のなかには、ロザリオ(十字架がついたカトリックの数珠)などのキリスト教関係の品物も多く含まれおり、南蛮ブームは文明をおなじくするキリスト教拡大の温床になりました。禁令下にもかかわらず、秀吉統治時代に全国のキリシタン数は、15万人から2倍の30万人に増加したのです。

 

 

慶長1年(1596)、浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂流して入港し、ひとりの船員が役人に世界地図を指し、スペインの領土が広大であること、スペインは「まず宣教師を送り布教し、その後軍隊を派遣してその国を征服する」と言ったことが秀吉に報告されました。そして起こったのが「26聖人殉教」です。外国人宣教師9人と日本人信徒17人が京都で捕らえられ、長崎で磔刑にされました。この処刑はキリシタンに警告を与え、人々の見せしめにする意図で行われましたが、26人の殉教はかえってキリシタンの信仰を高揚させたのです。

 

 

文禄1年(1592)、秀吉は文禄・慶長の役を起こしました。この戦争は朝鮮半島で戦われましたが目的は中国征服でした。秀吉の中国征服の意思は、信長死亡の3年後である天正13年(1585)には、側近に表明していたことが史料で確認されます。この時は、秀吉の覇権が確立してから幾ばくも経ておらず、秀吉は信長の中国征服構想を知り、それを踏襲したと考えるべきです。

 

 

「戦国脱亜」は、当時としては、極めて特殊な中国観をもつ権力者が、中国征服を行なうため朝鮮に侵攻し、明と戦い、中華帝国と修復不可能な亀裂をつくった国家の行動として展開しました。秀吉は、慶長の役のとき兵士の戦功を確認するため、倒した敵兵の鼻を切り日本に送らせました。それらが収められているのが京都の耳塚です。また、多くの韓国の人々を奴隷として連行し日本で売りさばいたのです。

 


 
秀吉が死に、日本軍は朝鮮半島から撤退します。その後、再侵攻を考えた人物はいません。日本にとって外国に軍を派遣することは、およそ1000年も前に百済支援のため朝鮮半島に兵を出したとき以来のことでした。まして侵略戦争を行なったのは歴史はじまって以来のことだったのです。

 

 

島嶼独立国家にとって外国侵略はその伝統から大きく逸脱するものでした。どんな勇猛な戦国武将でも外国に行って戦うことなど夢にも思わないことなのです。それを早くから考えていた唯一の人物が織田信長です。秀吉の「唐入り」の発想は、彼が神のごとく崇め従った信長から学んだことだったのです。

 

 

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中天に輝くキリシタンの栄光・信長はここまでキリスト教を優遇した !

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信長は天皇が求めても献上しなかった安土城屏風絵を宣教師に与えた

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-11》

    

 

永田正治(Masaharu Nagata)

 

    

キリスト教宣教師を公家と同等に扱った「馬揃え」

 

村重謀反の翌年、イエズス会の巡察師アレクサンドル・ヴァリニャーノが来日しました。彼はイタリア貴族出身、長身、端正な顔立ちで、すぐれた見識を兼ねそなえた傑物でした。東洋での宣教活動をとり仕切る大きな権限をもち、日本教会の規律を定め、宣教地区を五畿内、豊後、下(豊後以外の九州地域)の3地域に分けました。また有馬に神学校セミナリヨ、府内に聖職者を育成するコレジョ、臼杵に修練院を設立するなど、教育機関を整え、大村純忠から、長崎と茂木の寄進を受けたのです。

 

 

天正9年(1581)2月、ヴァリニャーノは帰国に先立ち、信長に挨拶するため、フロイスらを伴って京都へ赴きました。信長は、巡察師を長時間にわたり会見し、手厚くもてなし、巡察師と在京の宣教師を、京の市中で行なわれる「馬揃え」に招待しました。馬揃えとは、信長の威光を誇示するため、武将らが華麗な衣装をまとい、飾り具を付けた馬に乗って行なう軍事パレードで、これを一目見ようと、諸国から20万人にものぼる群集が集まったといいます。

 

 

天皇、公家、高位の僧侶が招待されるなかで、ヴァリニャーノら宣教師も貴賓として特設の場が設けられ、格別の待遇でもてなされたのです。信長は、行事の途中、巡察師が献上した金の装飾を施した深紅の椅子、まさに「玉座」に座り、自らが優越した存在であるということを人々に見せつけました。

 

 

馬揃えの行事は信長の権威を示す行事でしたが、キリスト教の栄光をあらわす絶好の場にもなりました。最も権勢ある人物が、天皇や権威ある人々とともに、宣教師たちを貴賓として招待した事実は、キリスト教の宣教師が当時の階層秩序のなかで極めて高い地位を獲得したことを意味し、天下に示され、その名誉はキリシタン全体におよびました。

 

 

 

安土城で極まった信長のキリスト教優遇

 

夏になり、ヴァリニャーノは安土城を訪れました。信長は歓待し、おおくの使者に城と宮殿を案内させ、彼自ら3度も姿を見せ、宣教師たちと長時間会談しました。盆の日に、信長は、巡察師に見せるため、天守閣を提灯でライトアップさせ、城から下る道に、たいまつを持った群衆を両側に配列させ、そのあいだを若侍と兵にたいまつを振りかざして疾走させたのです。まさに、信長らしい奇抜なパフォーマンスで、いやがうえにも、安土城の主人とキリスト教宣教師の強固な結びつきを印象付けました。

 

 

巡察師が別れの挨拶に行くと、なんと、信長は、大事にしていた安土城を描いた屏風を与えました。これは狩野永徳安土城を中心に町の全体を精巧に描いた逸品で、天皇が所望しても献上しなかったものです。ヴァリニャーノは感激し、ローマ教皇への贈物とするといいました。そして、ヴァリニャーノ一行の帰路、多くの貴人が安土屏風を見るために集まったので、京都、堺、豊後などで公開したのです。この出来事は、信長のキリシタンへの格別な好意を、強烈なインパクトをもって、再び天下に知らしめました。

 

 

歴史には驚くべき瞬間がありますが、ヴァリニャーノ巡察師の畿内訪問中における馬揃えと、安土城での一連の出来事は、日本史のなかでも特筆すべき「奇観」であると思います。まさにこれは、信長という特異な個性と異文明の宗教が接触し、スパークして強い光を放った光景と言えます。

 

 

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おそらく天正少年遣欧使節は日本が送った使節の中で最もインパクトが大きかった使節

 

 

天正少年遣欧使節という、「東方の三王国」のキリストの証人

 

ヴァリニャーノは大成功した畿内訪問の帰路、壮大な計画を発案します。それは、4人のキリシタン少年をローマ教皇への使節として派遣することで、しかも、九州のキリシタン大名である、大友、有馬、大村の「三人の王」の名代という使節です。

 

 

大名の子が使節になれば「王子」であり理想的ですが、大名が危険な旅に子息を送り出すはずはありません。ヴァリニャーノは、大名の親族の中から4人の少年を見出し、使節としますが、彼らは、ヨーロッパで、王子でもないのに、「王子」をはるかに超える、最高の待遇で迎えられたのです。これが「天正少年遣欧使節」です。

 

 

ヴァリニャーノはインドのゴアまで少年達を連れて行きますが、そこでインド管区長に任命され、インドからは宣教師メスキータ(ユダヤ系)が少年達を連れて行くことになりました。少年達は長い旅のあいだ、宣教師からキリスト教教理と、イタリア語、スペイン語ポルトガル語などの語学、音楽やヨーロッパの礼儀作法などの教育を受け、使節に相応しい教養を身につけます。

 

 

この少年使節は、ヨーロッパのカトリック諸国からセンセーショナルな出来事として注目され、驚くべき大歓迎を受けました。当時のカトリック教会は宗教改革の影響で、イギリスやヨーロッパ北部を失い、プロテスタントの凄まじい勢力拡大に悩まされていました。そこへやって来たのが、カトリックを受容した「東方の三王国」から派遣された王子たちですリスボンに着いた使節は、スペイン国王フェリペ2世をはじめ、通過する地域の諸侯に最高の待遇でもてなされ、ローマ教皇庁では、国王に対する儀礼で迎えられたのです。

 

 

1585年の3月、教皇グレゴリウス13世は公式会見し、そのとき教皇は涙を流しました。東洋伝道の成果を示すこの会見は、グレゴリオ暦(太陽暦)を採用し、聖職者教育機関の整備、アジア、アメリカ大陸の布教に力を注いだ教皇の最後の栄光となり、翌月、83才で他界したのです。

 

 

教皇のシスト5世は、少年使節と会見し、彼らに即位の儀式に名誉ある役を与え、祝祭の主賓としました。教皇がラテラノ教会に赴く行列にも加わり、この時の行幸図には4人の姿が目立つように描かれています。

 

 

この使節は様々なことを象徴しています。ローマ・カトリック教会が宣教師たちに託した願いは、まさにこのような瞬間を迎えるためでした。大帝国スペインにとっても、世界進出を正当化する、聖なる使命の成果がこの使節によって証明されたのです。そのため、教皇は涙し、ヨーロッパ世界最強の君主であるフェリペ2世は、使節を起立して迎え、ひざまずく儀礼を押しとどめて、親しく抱擁したのです。

 

 

一方、使節を送り出した日本側も、権力者信長がヴァリニャーノを国賓に対するような待遇でもてなし、貴重な安土城を描いた屏風を教皇への贈物としました。使節を送った3大名も、幾多の試練を克服し信仰を貫いたカトリック信者でした。しかも、帰国した使節を太閤秀吉は正式使節として認め歓待したのです。少年使節ローマ教皇に派遣した正式の日本国使節だったのです。

 

 

使節は、新・旧キリスト教の対立という背景、しかも教皇交代期にやって来たので、ことさら喧伝されましたが、これはアジアとヨーロッパ間の、宗教を中心とした壮大な交流であり、しかもヨーロッパ側が切実に望むものでした。また、日本が過去、外国に送った使節で、これほど多くの国々から強い関心が向けられ、熱い歓迎を受けた使節はなかったと思います。

 

 

この天正遣欧使節の経緯をみても、戦国脱亜というものが、ヨーロッパ・カトリック教圏の世界への進出がきっかけとなり、それを受け止めた信長とキリシタン大名、そして信者達の協働という、国際的背景を持つものであったことが分かります。

 

 


 
キリシタンの王国・戦国脱亜の背景

 

信長と他のキリシタン大名では、その力量と影響力は隔絶していました。大村純忠有馬義貞は、竜造寺隆信など宿敵の脅威に直面しており、大きな利益を与えてくれる南蛮貿易と南蛮の武器に領国の保全を頼っていました。大友宗麟は強力な武将でしたが、宗麟のキリスト教保護は、妻をはじめとする反対派、それと結びついた仏教、神道勢力による妨害に悩まされ、外からは薩摩島津家の脅威にさらされました。

 

 

信長の力と威光は圧倒的で、彼のキリスト教保護は、身内と軍団はもとより、その勢力圏であれば、朝廷や仏教教団などの伝統勢力も反抗できませんでした。信長への恐れが反対を封殺したのです。信長勢力圏は、専制的権力者の格別な庇護を受け、キリスト教徒が何者も恐れず宣教ができた「キリシタン王国」だったのです。

 

 

フロイスは「日本覚書」のなかで、「われらは何にもまして悪魔を嫌い憎む。仏僧らは悪魔を敬い礼拝し、悪魔のために寺院を建て、またこれにたいそうな犠牲を捧げる」と記しています。これが宣教師の仏教観で、その影響を受けたキリシタン大名たちは、領民にキリスト教への改宗を迫り、仏教と神道を排除し、神社仏閣を破壊したのです。偶像破壊と強制改宗はヨーロッパでは盛んに行われましたが、宗教のあり方が異なる日本でこのような布教が可能だったのは、それが信長の思想に反することではなかったからです。後に、日本的宗教観を持つ秀吉は、この宣教方法を問題としキリスト教を禁止することになります。

 

 

アジア伝来の仏教は、神道を排除することなく、融和して日本に深く根を下ろし、古来の日本とアジア文明を融合させました。ところが、ヨーロッパから伝来したキリスト教は、仏教や神道との共存を拒否し、キリシタン勢力圏は、非アジア的、非日本的な世界を形成したのです。それと、覇者信長の伝統的価値観を否定する意識が共鳴しました。これが戦国脱亜の思想的背景と言えます。

 

 

 

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日本史の一大奇観・なぜか、信長の異常なキリスト教保護

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魔王信長、宣教師フロイスの勇気に感動す

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-10》

 

 

永田正治 (Masaharu Nagata )


 

●信長、フロイスの勇気に感動する (二条城での会見)

 

永禄12年(1569)の4月3日、今度は、信長が会見を申し出、場所は二条城の建設現場を指定しました。信長は、堀の橋の上でフロイスを待ち、橋の板に腰を下ろして談話を始めました。

 

 

信長はフロイスの年齢、ポルトガルとインドから来てどれほどになるのか、どのくらいの期間勉強したか、親族はポルトガルフロイスと再会したいと願っているか、ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るか、また、どれくらいの道のりなのか、そして日本にデウスの教えが広まらなかった時には、インドへ帰るかどうか等の質問を立て続けにぶつけました。

 

 

フロイスは最後の質問に対して、たとえ信者が一人でも、その者のために終生日本に留まる決意であると答えたのです。また、宣教師たちが、どんな動機でこのような遠国までやって来たのかという問いに対しては、日本に救いの道を教えること以外は、如何なる現世的利益も求めないと答えました。信長は、危険な航海を顧みずやって来た宣教師の勇気と、堂々とした返答に大変感銘を受けました。それは次にとった言動で判ります。

 

 

群集が、ふたりの様子を見ていましたが、そのなかには僧侶もいました。信長は、僧侶を指差しながら大声で、「あそこにいる欺瞞者どもは、汝ら(キリスト教宣教師)のごとき者ではない。彼らは民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また彼ら(人民)に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と言い放ったのです。(フロイス『日本史』)

 

 

信長は、政治権力をもつ仏教勢力を抑え込もうとしていました。この言葉には、世俗権力を持ち、自分に反対する僧侶への不信と、世俗的利益を求めず、遠い異国からやって来た宣教師に対する好意という、彼の、仏教とキリスト教に対する認識があらわれており、それは生涯変わりませんでした。翌年、信長と石山本願寺との対立は激化し、2年後にはあの延暦寺焼打ちを行なうのです。信長のキリスト教保護は仏教弱体化政策と表裏をなすものでした。

 

 

4月8日、信長はキリスト教布教許可の朱印状を与えました。フロイスは、7本の銀の延べ棒を献納しようとしましたが、信長はこれを受け取らず、無償で朱印状を与えたのです。信長はフロイスを自室に通し、自身が飲んだ茶碗で茶を飲ませ、美濃の干柿を振舞い、ヨーロッパとインド事情に関心を示し、話は2時間余りに及んだのです。信長は、自分が岐阜に帰る前にふたたび来訪するようにフロイスに言い、その時は、ヨーロッパの綿織りの服を見せてくれと頼みました。他の贈物は受け取らなかったのに、先回のビロードの帽子といい、綿織りの服の依頼といい、ファッションに強い関心をもつ信長の趣向をよく表しています。

 

 

信長は4月29日、フロイスと僧侶日乗の宗論(教義論争)を行なわせ、300人余りの信長軍団の主だった人々が参席しました。フロイスの日本語能力は充分ではなく、ロレンソという琵琶法師出身のイルマン(修道士)が議論に立ち、神の存在有無を中心に、激しい論争を展開しました。

 

 

宗論はキリシタンの圧勝で、日乗は論争最中に怒りだし、信長の面前であるにもかかわらず、ロレンソに切りかかったので、数人の者に制止されました。このなかには秀吉も居たといいます。信長は日乗のふるまいを激しく非難しました。この宗論の結果、キリシタンの教えに好意を抱いていなかった家臣も考えが変わり、京の市中にもこの顛末が伝えられたのです。

 


 
 岐阜城での信長の驚くべき行動、そして、信長とキリスト教は連合す

 

宗論に敗れた日乗は、キリシタンに激しい憎しみを抱き、朝廷にはたらきかけて、再び宣教師追放の綸旨を発させ、市中に不穏な動きもあり、キリシタンに危険が迫りました。フロイスは信長に助けを請いに岐阜城に赴きました。信長は、突然訪ねてきたフロイスを暖かく迎え、山のふもとにある館の内部を自ら案内して見せ、フロイスはこの館の巧妙なつくりと美しさに感動しました。

 

 

その後、信長は山上の城で驚くべき行動をとります。食事のとき、フロイスの膳を自らが運び、日本人修道士のロレンソには、次男の信孝に運ばせたのです。予想外の事態にフロイスは驚き、膳を頭上に戴いて感謝の意を表しました。

 


 
当時は戦乱の時代で、政治は不安定でした。そのような時代には、権力者の直接的行動が強い影響力を持ちます。岐阜城でのこの出来事はすぐに岐阜城下から京都へ伝えられ、信長がキリスト教に対し並々ならぬ好意を抱いていることが広く伝わり、日乗をはじめとする反対派は、これ以上の妨害は行なえなくなりました。

 

 

信長軍団は親キリスト教勢力となり、信長の影響下にある地域では、キリスト教が歓迎されるようになったのです。そのような連鎖反応を誰よりも知るのは信長自身で、後に、自分のこの日の振る舞いは、バテレンの名声を高めるためであったと語っています。これは事実上、信長とキリスト教の連合が成立した瞬間でした。この時を境に、人々のキリシタンに対する見方は一変し、日本におけるキリスト教の躍進が始まったのです。

 

 

岐阜城でも、2人は3時間ほども話し、信長は自然の構成要素である、地水火風や日月星辰、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、その答えに満足したのです。フロイスルネッサンス期の教養を身に付け、人並み外れた好奇心で物事を観察する人物で、ポルトガル王室の秘書庁で働いた経歴もあり、貴人との接触も慣れていました。彼は優れたメッセンジャーであるとともに、文章家で、彼の書いた『日本史』は戦国時代を知る貴重な文献です。

 

 

信長はフロイス18回も会い、親しく語り合いました。そこで信長が得た情報は、中国皇帝、朝鮮国王といえども知らない世界の最新情報でした。信長は事実上、当時の東アジアでもっとも優れた外交ブレーンを持つ権力者と言えたのです。

 


 
天正2年(1574)には、大村純忠が全領のキリスト教化を断行し、領民にキリスト教への改宗を強要し多くの信者を獲得します。天正4年には、有馬義貞、6年には、大友宗麟が洗礼を受けました。天正5年には、京都に「南蛮寺」が完成し、ザビエルがキリスト教を伝えてから28年を経て、首都京都に教会が建てられ、この異国風の建物は京の名所になりました。

 

 

キリスト教発展は信者数に表れています。信長とフロイスが会った翌年(1570年)のキリシタン数は京都で700人、全国で26000人でしたが、12年後の1582年には、京都で25000人となり36倍、全国で150000人に上り、6倍に増加し、キリスト教は一大宗教勢力に成長したのです。

 

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高山右近の本物の信仰がキリシタンを救う

 
  キリスト教は、高山右近の信仰で信長の信頼を獲得した

 

 

ところが、天正6年(1578)、信長とキリシタンのあいだに大問題が発生します。高山右近の父子は高い地位と人望とによって、畿内キリシタンの代表者のような存在でしたが、彼らの上司である荒木村重が、信長に不信を抱き、本願寺と通じ、在岡城に立てこもり叛旗をひるがえしたのです。

 

 

京都支配を軸に勢力圏を拡張していた信長にとって、京の近くで起こったこの謀反は、有利な状況を一気に覆しかねない極めて危険な動きでした。信長は、宣教師オルガンティーノを通じて、右近に対し投降して、高槻城を明け渡すように強く催促しました。

 

 

高山右近は、村重に翻意を促すため、在岡城に赴くとき、自分の嫡子と妹を人質として同行させました。村重は右近の誠意に心を動かされ、信長に許しを請いに城を出ましたが、反対する重臣達に城に連れ戻されてしまったのです。

 

 

この深刻な事態に、信長は、泣きすがるような表情すら浮かべ、オルガンティーノに高山父子が協力するよう働き掛けることを要請しました。もし、右近が信長を裏切るようなことがあれば、キリシタン全体に災いが及び、宣教が壊滅的打撃を被ることは火を見るより明らかでした。

 

 

右近は、人質を取られる一方、自分の決断如何が、キリスト教の運命を左右するという身を引き裂かれるような立場に追い込まれたのです。進退に窮した右近は、捨て身の行動に出ました。すべての地位を投げ出し、髪を剃り落とし、紙の衣を着て、信長に許しを請うたのです。信長はこれを受け入れ、右近を元の地位に復させました。

 

 

高槻城は開城し、在岡城への攻撃が開始されました。包囲は長期に及びましたが、村重は城を脱出し、尼崎に落ち延び、兵士らも撤退しました。信長は、村重の妻と2人の娘、近親36名を処刑し、貴婦人120名を磔に処し、514名の男女を小屋に押し込め焼き殺すという残虐な報復をしました。

 

 

信長を襲った危機は、オルガンティーノの協力と高山右近の捨て身の行動によって解決することができました。信長は、裏切りが常の戦国の世に、キリシタンは裏切らないことを知り、彼らを深く信頼し、以前に増す庇護を加えるようになるのです。

 

 

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戦国キリスト教・激動ヨーロッパから激戦日本に

 

 

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ザビエル来訪は躍動する戦国脱亜時代を拓いた



 島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-9》



永田正治 (Masaharu Nagata)

 

         

われらは唯一のデウス、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会を唱道する。日本には十三の宗派があり、そのほとんどすべてが礼拝と尊崇とにおいて一致しない。
         (『フロイスの日本覚書』松田毅一・E.ヨリッセン 中央公論社)

 

 

                * * *

 

          
 ●中国からヨーロッパへ、先進知識の供給源が大転換

 

戦国時代の末期、日本にやって来たカトリックの宣教師は、ローマ教皇の意をうけ、キリスト教を布教するため海外にのり出したイエズス会の司祭たちでした。彼らを支援したのは、ポルトガルスペインで、両国は大航海時代をひらき、世界に領土を拡張するキリスト教の帝国で、ヨーロッパ拡大の先兵となった国々です。当時のヨーロッパは、宗教改革によりプロテスタントが勃興し、カトリックとのあいだで、凄惨な宗教戦争の時代に突入していました。宣教師たちは、内には宗教間の葛藤、外には征服という、激動するヨーロッパから戦国動乱の日本へ、まさにその絶頂期を迎えようとしている時にやって来たのです。

 

 

このカトリックの宣教師たちを保護した信長は、「戦国の申し子」のような人物でした。彼は、敵を倒し勢力圏を拡大するため、鉄砲活用や経済集中など、時代の新機軸を次々に打ち出しました。その信長も、宣教師に対してだけは、彼らの知識を貪欲に求める探求者であり続けたのです。彼は、宣教師を通じ、地球が球形であること、アジアを越えてさらに大きな世界があること、世界情勢、ヨーロッパの宗教、政治など、多くの情報を得ました。

 

 

先進知識の情報源がヨーロッパになり、ながく、知の発信地であった中国の役割は失われました。「日本・唐・天竺」という世界認識から、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカまで広がる、近代的世界認識を持つようになり、中国はただの隣国となったのです。それらの知識は、今日では常識ですが、当時の日本人にとっては、宣教師以外には得られない最先端の知識でした。

 

 

 

 バテレン(宣教師)は、信長の国家戦略構想のブレーン

 

他の戦国大名が、領国経営と周辺情勢に目を奪われているなか、信長のみが、世界の中での日本という視野を持ち、日本をも越え、全国統一後は中国を征服するという途方もない構想まで、宣教師フロイスに語っていたのです。

 

 

よく、信長は、ヨーロッパの文物を得るため、宣教師を優遇したと説明されますが、彼はすでにフロイスが驚くほど多くの南蛮文物を所有しており、鉄砲は国産化され、入手には宣教師を通じる必要はありませんでした。信長は、「もの欲しさ」などではなく、宣教師を通じて、世界の情報を得、日本統一後の国家構想を案出するため、またヨーロッパ世界と通交するため、すなわち彼らを「ブレーン」として、あるいは「外交官」として特別な処遇をしたのです。

 

 

ヨーロッパのキリスト教拡大は、キリスト教国家の文明力と国力を背景としてなされましたが、遠方に位置するポルトガルが、日本に及ぼせる影響力はごく限られたものでした。ローマ帝国キリスト教を公認したとき、キリスト教は大勢力でしたが、当時の日本のキリスト教は脆弱で、宣教師は京都から追放され、まさに風前の灯の運命でした。

 

 

古代の仏教と、戦国のキリスト教は、やって来た地域は異なりましたが、伝来後の状況は似ていました。国内基盤が脆弱で、王権である天皇は、受容に消極的、あるいは反対し、既存勢力の強い反発を受けたため、馬子も信長も、反対を押し退けて保護しなければならなかったのです。日本は、仏教もキリスト教も、教えの発祥地から遠くはなれ、両宗教を受容した帝国との関係も希薄で、帝国の征服や圧力、あるいは外交関係により宗教が伝わらないという条件が、同一でした。

 

 

そのため、世界宗教の受容と奨励を一手に請負う実力者が求められ、その人物の役割が大きなものになりました。古代における仏教受容の「請負人」が蘇我馬子で、戦国時代のキリスト教受容の「請負人」が信長でした。

 

 

信長はキリスト教に対し、人々が驚嘆するほど好意を示しましたが、これは人々から恐れられた人物が行う、極めて効果的な庇護策だったのです。信長の後押しにより、短期間に、キリスト教は大勢力に成長し、この南蛮宗教が一世を風靡する時代をつくりました。このような保護政策を実行したのが、天皇でも将軍でもない一人の有力武将信長であったことも、島嶼独立国家の世界宗教受容の特徴をあらわしています。日本には、世界的文明や世界宗教との遭遇期に、忽然として、日本の枠を超える強い改革意思をもつ人物が現れますが、信長はそのような人物の代表といえるでしょう。

 

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秀吉の朝鮮侵攻のルーツは何か?

 

●中国侵攻の発案者は秀吉ではなく信長だった!

 

宣教師と出会った13年後、信長は本能寺の変に斃れました。彼の壮大な野心は、後継者秀吉に受け継がれ、文禄・慶長の役を引き起こしたのです。この戦争は信長の遺産と言ってよいものでした。今日まで、朝鮮侵攻は秀吉の発想で行われたと思われて来ましたが、この戦争を、日本を神国とし、天皇を崇拝した秀吉の責任に帰すことは、日本が本来的に侵略性や野蛮性を持つ国であると誤解される余地を提供し、「神国‐天皇‐秀吉‐武士‐侵略」という荒唐無稽な構図が成立する危険があります。戦前には日本自身が、秀吉は愛国者天皇を尊び、外国を征伐した英雄と称えたのです。

 

 

日本の歴史上、他国侵略のために兵を発したのはこの時が初めてで、海外侵略は、島嶼独立国家の伝統から逸脱する行為でした。秀吉は信長のように、日本を根本的に変革するような発想は持たず、天皇を戴き、日本の伝統を継承し、武家と貴族を合わせた政治体制をつくりました。しかし、アジアに対する認識と、中国を征服するという計画、すなわち海外認識と国家戦略は信長の発想を踏襲したのです。

 

 

そもそも日本には、中国を軽視する風潮はありませんでした。権勢を誇った足利義満ですら明朝に臣従しようとし、戦国大名も保守的な人物達で、中国観は古来のものでした。中国も征服可能な普通の外国とする考えは、信長と秀吉の中国観なのです。多くの人々はこのような意識を持てるはずもなく、秀吉の朝鮮侵略も人々は疑いを持っていたのです。

 

 

6世紀、日本はアジア伝来の宗教である仏教を受容し、アジアと強く結ばれました。1000年のあいだ、アジアを尊重していた日本が、戦国末期、ヨーロッパ文明との接触の衝撃により、突如として、国家意思決定者のアジア観が変化し、中国侵略の野望を抱き朝鮮半島に侵攻したのです。この転換は、「戦国脱亜」と言えるアジア観と国家戦略の大変化で、ヨーロッパとの交流により科学技術は発展しましたが、島嶼独立国家を変貌させ、人々の価値観を混乱させました。それは、江戸元禄時代にいたり、儒教と仏教を強力に奨励することにより、国民が価値観の安定を取り戻す時まで、負の影響を及ぼしたのです。

 

 

また、戦国脱亜はヨーロッパ国家の圧力がないにも拘わらず、信長が、積極的に、キリスト教とヨーロッパ文明を受容して主導したもので、西洋列強の圧力によって引き起こされた「明治脱亜」よりも、自発的な、脱亜の原型とも言える日本史上の特殊時代でした。

 

 

 

 ●信長、宣教師フロイスと邂逅 戦国史を変えた出会い


  
永禄12年(1569)3月、信長は綸旨(天皇の命令)で堺に追放されていた宣教師ルイス・フロイスを京都に帰還させました。これは、いかに朝廷の力が弱い時代でも、大変な越権行為で、王権が厳に禁じた宗教を、しかも王都で、信長という、一実力者が独断で許可するという、おそらく世界の宗教史上おこり得ない出来事でした。

 

 

信長は、フロイスの京都到着3日後、宣教師一行を接見しました。彼らは謝礼として、大きなヨーロッパの鏡と孔雀の尾、黒いビロードの帽子とベンガルの籐の杖を携えて行きました。一行は、奥に通され食膳を饗されましたが、信長の対応は、遠くから宣教師をじっと観察するだけで声もかけず、贈物のなかで、ビロードの帽子だけを受け取るという異様なものでした。

 

 

後に、信長はこの行動について、「遠方から渡来した異国人をどう扱ってよいものか判らず、宣教師と二人で話せば、自分がキリシタンになることを望んでいると疑われることを案じたため」、とその理由を語っています。

 

 

さすがの信長も、はじめて見る異国人、しかも都で物議をかもしているキリシタンバテレンに対して、下手に扱えば政治的負担を負うことにもなりかねないので、どのように遇してよいか迷ったのです。この、信長とフロイスの出会いから、日本の戦国時代の様相が一変する激変がはじまるのです。

 

 

 

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「原版エクソシスト」の真実・ホラーは宗教か?

 

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エクソシストは愛の勝利の物語


          

 永田正治 (Masaharu Nagata )

 

 


●ホラーの本質と「エクソシスト

 

人は「怖いもの見たさ」という心理があります。とくに若者には強く、ホラー映画や恐いテレビ番組などはたいへんな人気があります。ホラーは、霊的存在である悪魔や呪いがテーマとなるものですから、明らかに宗教的です。その背景は、過去に人が人に対して犯した恐ろしい行為です。

 

 

これは、宗教はつよく意識します。罪や業と規定し、解決しなければ人は救われません。しかし、悪魔、呪い、怨念などは、本来あってはならないものとして、必要以上に表にあらわしません。むしろ反対のものである、神や仏、賛美、許しなどを強調することによって、忌まわしい超常現象を克服しようとします。

 

 

1973年に上映された「エクソシスト」は、世界に衝撃と恐怖をあたえ、ホラー映画の新時代をつくりました。今日でも、ホラー映画ファンが一番怖い映画にえらぶ作品のひとつですが、「エクソシスト」は、ホラー映画とは何かを考えるうえでたいへん参考になります。

 

 

1971年、レバノン出身のカトリック信者ウイリアム・ピーター・ブラッティ氏が書いた原作小説は、キリスト教における、信仰の勝利をテーマとした内容なのです。巻頭に、イエズス会士の人々が、霊現象を「どう考えればいいかを教えてくれた」と謝辞を記しているほど、カトリック教会のさまざまな助力を得て完成した作品です。アメリカでベストセラーになったこの小説が、どんな内容であるかを知るには、裏表紙に書かれたディーン・クーンツ氏の紹介文が端的にあらわします。

 

 

エクソシスト」は、えもいえぬ恐ろしさに満ちた壮絶な作品であると同時に、偉大で感動的な作品だ。なぜなら、ホラーの内側に大いなる愛 ー 母と娘のあいだの愛と、少女の魂を救おうとする神父の卓越した愛 ー を描いているからだ。この作品がベストセラーになったのは、《悪魔憑き》の恐怖場面にではなく、感動を呼ぶ物語に読者が惹きつけられたからだ。

 

 

この本は最初に、イエス・キリストが悪霊に憑依された人を癒す聖書の引用、マフィアが、3日かけて敵対者を殺害した様子を笑いながら話す盗聴記録の内容、共産軍が教会に押し入り、キリスト教司祭の舌を切り、7人の少年の耳に金箸を突き刺した残虐行為、そしてダッハウアウシュビッツ、ブッヘンヴァルトというナチス強制収容所の名を引用します。これはホラーを成立させる背景が、過去に人が人に対して犯した恐ろしい行為だということを強調しています。

 

 

主人公デイミアン・カラス神父は、ワシントンにあるイエズス会系のジョージタウン大学に勤務します。彼は精神科医でもあり、大学にいる神父たちの心理カウンセラーをしています。しかしカラス神父の内面には、神に対する不信が生まれ、信仰の危機に直面していました。この苦悩する神父に、娘が悪魔に憑依された母親が助けを求めます。そして悪魔祓い師(エクソシスト)のメリン神父を呼び、二人で娘にとり憑いた悪魔と対決します。

 

 

メリン神父も、高齢のうえ重い心臓病を患っていました。まさに命をかけ悪魔に挑むのです。二人はともに、強力な悪霊と戦うことなどかなわない、致命的な弱点を抱えていたのです。悪魔はカラス神父の弱みである母親の幻を見せるなどして、信仰心を挫こうとします。しかし、メリン神父の強固な信仰の感化を受け、信仰心を取り戻してゆきます。カラス神父は極限の状況下で、「信仰の師」と出会ったのです。

 

 

メリン神父は、悪魔との対決中に発作を起こして死にますが、カラス神父は卑劣な悪霊に怒りを発し、殴りかかり、自分に乗り移れと迫り、乗り移った瞬間、窓から身を投げて死に、少女を悪魔から救います。

 

 

二人の神父は、一人は信仰、一人は肉体に重い十字架を抱えながら、少女を救うために悪魔と戦い命を捧げました。そして一人は信仰を再び獲得し、一人は神の聖業を成すなかで献身的生涯を閉じたのです。この物語はキリスト教聖職者の、愛と信仰の勝利の物語なのです。

 

 

 

●恐怖効果と宗教の価値観

 

メリン神父は悪魔の狙いについてこう語ります。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、とり憑く犠牲者にあるのでなく、われわれ ― われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティーを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が究極的には堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある―」、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」、「そしておそらく、サタンでさえもが ― その本質に反して ― なんらかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」。

 

 

悪魔は、ジョージタウン大学礼拝堂の聖母像をけがして冒涜し、神に挑戦を挑んでいます。悪魔の狙いは少女ではなく、家に住む者や信仰の確信を得ようとするカラス神父、人を救うため死も恐れないメリン神父など、それらの人がもつ愛情、信仰、勇気、すなわち人間の善なる心を破壊することなのです。

 

 

また、創造主である神の力は圧倒的で、勝利は定められています。霊的にみると、悪が悪を行うのは、自身が救われるためです。悪は自身の悪を解決できず、善に対して悪をなし、善が克服することによって、救われるしかないのです。エクソシスト」は、凄まじい悪の力にも打ち勝つ、神の全能性と人間の善意がもつ偉大な力が強調されているのです。

 

 

しかし、ウイリアム・フリードキン監督の映画では、前出の、メリン神父の悪魔の真の狙いに関する洞察部分は削られています。この言葉がなければ、物語の本質は変えられてしまいます。削った意図は、恐怖を増幅させるためです。宗教的意味は隠され、悪霊の目的は少女を破滅させることに集中し、見る人を少女に同一化させ、孤立感と心の弱さをとらえます。神の無力、人間の善意の弱さ、悪霊の圧倒的つよさが強調され、恐怖がながく人の心を支配します。ホラー映画のお決まりのパターンです。

 

 

実は、映画でもメリン神父の言葉は短く語られていましたが、73年版では、最後の編集で削ったのです。ラストシーンも変えられました。原版では、カラス神父はキンダーマン警部と気が合いましたが、カラス神父の親友であるダイアー神父とキンダーマン警部も気が合い、冗談を言いながら一緒に歩き出す、さわやかな場面で終わります。カラス神父の存在はダイアー神父につながり、ストーリーの恐怖を緩和し、物語を昇華させているのです。73年版ではこの場面はカットされ、ダイアー神父が、カラス神父が転落した階段を暗い表情で見つめる場面で終わります。

 

 

2000年、これら削除した場面を復活させて、ディレクターズカット版として復刻しました。これは、本来の宗教性が加味され、ブラッティー氏の原作に近づき、霊的真理を語る映画に変わったと言えます。

 

 

しかし、「エクソシスト」の映像はあまりに刺激的で、宗教的には「霊的に良くない」もので、宗教教団がお勧めできるようなものではないでしょう。宗教では、悪霊をリアルに表現することは避けるのです。ホラー映画で評価できるのは、人が罪を犯したら、真摯に懺悔し、つぐないの行いをしない限り、その罪業は消えることなく、必ず報いを受けるというメッセージを発信していることです。宗教的な「地獄の戒めの教え」と見ることもできます。人をゲームのように次々と殺す、アクション映画よりいいかも知れません。

 

 

 

増上寺とお化け屋敷のコラボ

 

日本では、「呪怨」や「リング」が怖いホラー映画の上位にありますが、恐ろしさを増幅し、持続させるため様々なテクニックが用いられます。恐怖心を呼び起こす小道具や効果音を巧みに用い、ラストシーンは解決されたと思わせ、一転して最悪の恐ろしい場面で終わります。神や仏が助けを差し伸べられず、悪霊が凄まじい力を発揮し、人の心身を破壊するというホラーの定番ストーリーです。

 

 

しかし、もし、「呪怨」の伽椰子や「リング」の貞子が、神仏の大いなる愛に触れ、恨みを忘れ、人々を助ける善霊になるというストーリーに変われば、立派な宗教映画になってしまいます。ホラーは憎しみと復讐の霊現象を強調し、宗教は愛と許しの霊現象を尊いものとします。両者は、紙一重のちがいです。

 

 

ホラーは人気があり、テレビのホラー特集は高視聴率を獲得できる番組です。特に夏には毎日のようにホラー番組があります。宗教が手ばなしに受け入れることはできないものですが、霊的なものを一切受け容れないという唯物的考えよりも宗教にちかく、救いがあるのではないでしょうか。ですから、宗教者は、ホラーのなかにある宗教性を論じることによって、ホラーファンを、清らかな霊性をもつ宗教のほうに導くことができると思います。

 

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増上寺がおこなったホラーの宗教への取り込み

 

 

2015年、芝増上寺が毎年行っているフェスティバルでは、「お化け屋敷」を設けました。それも一流の仕掛人による、本格的な怖いお化け屋敷です。お寺がどうしてお化け屋敷なのでしょうか。日本の伝統的おばけは、「悪」ではなく「悪の犠牲者」です。もともと不幸な善人で、自分を苦しめ殺害した悪人に恨みをはらしますが、神仏に挑戦したり、関係のない人に災いを及ぼしたりはしません。反キリストの西洋の悪魔とはちがいます。ですから、「おばけ」は仏教が取り込むことができるのです。

 

 

仏教が「お化け屋敷」をすれば、お寺に大勢の人が集まり、ほかの催しや展示とも接し、仏教と人々とのこころの距離を縮められます。このような企画は、仏教の寛大さと柔軟さを発信し、仏教的価値観の社会への浸透も促進します。

 

 

一方、日蓮宗の僧侶で、「怪談和尚」と言われる三木大雲師は、自身も幼いころ霊的体験をし、京都の公園で、若者に怪談話からはじめ、徐々に仏教を語り宣教の成果をあげました。三木師は「私が布教してきた若者たちが、現在お寺に集うのは、ただ霊というものに執着しているからでは決してありません。目に見えない世界から、今生きている世界を見始めたからなのです」と言います。

 

 

宗教は、人々を信仰に導き救済するため、怪談も利用していいと思います。宗教者は、あらゆる霊性表現の宗教的意味をとらえ、宗教と共存させ、より多くの人を、宗教的な善の世界に誘導すべきです。

 

 

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聖徳太子コンプレックスと仏教史の黒子・蘇我馬子

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日本人は宗教奨励を聖徳太子のような偉大な指導者の役割と誤解している

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-8》

 

永田正治 (Masaharu Nagata)

 

遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明は、つつしんで侍臣の怒利斯致契を遣わして朝に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです。 (百済聖明王の国書) (『全現代語訳日本書紀欽明天皇条 宇治谷孟 講談社)

 

                     * * *

 

●仏教受容をめぐる大戦争

 
朝鮮三国の例を踏まえながら、日本の仏教受容過程をかんがえます。日本の仏教伝来は、新羅より11年遅れた538年、百済聖明王が朝廷に仏像や経典を伝えたときです。欽明天皇の対応は、大連の物部尾輿らの強い反対があり、大臣の蘇我稲目に崇仏を許すという消極的措置に止まりました。

 

 

仏教信仰は、稲目の子である馬子が引きつぎ、584年から、百済より渡来した仏像を安置し、仏殿と塔を建て、三人の少女を出家させ尼僧にさせるなど、大胆に仏教導入をはじめました。翌年、疫病が大流行し、物部尾輿の子である守屋は、それを馬子の崇仏を怒る神々の祟りであると敏達天皇に訴えました。守屋は勅許を得、仏殿と仏像を焼き、塔を倒し、尼僧をムチで打つなどの強硬手段におよび、両派の対立は武力衝突が避けられないほどエスカレートしたのです。

 

 

馬子と守屋は、自派の勢力拡大に力を尽くしましたが、政治手腕に長けた馬子が諸、皇子や有力豪族を結集し優位に立ちます。587年の渋川の戦いは、初戦は軍事にすぐれた守屋が指揮する廃仏派が優勢でしたが、守屋が戦死することにより、崇仏派が勝利を得、ようやく仏教が公認されました。日本は、仏教伝来から49年もの長きにわたり、受容可否をめぐり激しい対立がつづいたのです。

 

 

戦勝後、馬子は、百済に留学僧を派遣し、百済からは仏舎利がもたらされ、僧侶が渡来し、寺工、画工などもやって来て、法興寺(飛鳥寺)を建立しました。そこに、慧慈と慧聡のふたりの渡来僧を住まわせ、この巨大寺院を、仏教宣教と国際交流の中心的役割をになう施設としました。

 

 

日本の仏教受容過程で注目されるのは、導入是非をめぐり、国家を二分する対立をまねき、それが戦争にまで拡大したという事実です。新羅も受容をめぐり葛藤がありましたが、イチャドンの殉教によって公認されました。戦争を経て公認された日本とは大きな差があります。大歓迎で応じた高句麗百済の伝来とはあまりにかけ離れたものでした。

 

 

日本は仏教が中華帝国ではなく、百済から伝来しました。百済は友好国であり、仏教に対しどのような態度をとっても、相手国の意向を気遣う必要のない、いわば「拘束力」がないものでした。また自国に深刻な脅威をあたえる敵国もなく、仏教の導入如何が国家の命運を分けることでもありませんでした。

 

 

注目すべきは、受容を主導したのが、「王権である天皇」ではなかったという事実です。高句麗百済はもちろん新羅も受容を推進したのは「王権」でした。ところが日本は、欽明天皇敏達天皇も仏教受容に対する態度を決めかね、蘇我氏という有力豪族が一貫して仏教受容を主張し、独自に導入を推進したのです。

 

 

前述しましたが、世界宗教の導入は、国家の重大事であり諸国では王権が主導しました。日本においては仏教というアジアの有力宗教、中国を中心に近隣諸国で篤く尊崇されている教えであっても、王権が受容を推進しなかったのです。しかもそれが、古代の仏教受容のみならず、近世のキリスト教導入と儒教奨励においても共通していたということは、日本の王権のあり方が、諸国と異なる性格を持つことを示すことに他なりません。

 

 

●仏教伝来と蘇我氏の国際性

 

日本書紀』には、仏教受容に対する朝廷内での反応を伝える箇所があります。百済聖明王の国書には、「遠く天竺より三韓に至るまで、人々はこの教えに従い、尊んでいます」とあり、仏教受容がアジア世界の趨勢であることを強調していました。

 

 

蘇我稲目「西方の国々は皆これを信じ、礼拝しています、日本だけがこれに背くべきではありますまい」欽明天皇に言上しました。この主張は、中華帝国との外交関係で仏教を受容した高句麗百済の立場、あるいは諸外国の動向を意識して仏教受容を推進した新羅の法興王と同じもので、アジアの大潮流に従おうとする意思を示しています。

 

 

稲目がこう考えたのは、蘇我氏が渡来系諸族と関係が深く、海外情報を豊富に得られる立場にあったからでしょう。これは、日本においては、君主である天皇が、一豪族よりも国際情勢に疎かったということ、またそうであっても、君主として国家に君臨し得たという重大な事実を示します。

 

 

それに対して物部尾輿は、「我国は帝が王としておいでになるのは百八十神を春夏秋冬お祀りなさるのが努めであり、今それを改めて蕃神を拝まれますならば、恐らく国つ神の怒りを招くでありましょう」と非難し、外国の神は拒絶するという排他性をあらわにしました。日本においては、この主張が、排仏の論理として強い説得力を持ったのです。

 

 

日本の仏教導入は、仏教を先行受容した中華帝国や周辺国からの影響がおよばず、導入反対勢力の攻撃に遭遇するという逆境のなかで行なわれました。そのため、仏教をめぐる海外情勢を感じ取れ、反対勢力に対抗できる力がある蘇我氏によって受容が進められました。すなわち、蘇我氏の役割、とくに馬子の活躍が大きなものだったのです。

 

 

長いあいだ、蘇我馬子が仏教受容に果した役割は注目されませんでした。理由は、彼が崇峻天皇を殺害した「大逆人」だったからです。日本の伝統精神からは到底許されない存在です。しかし、歴史を見るとき、好き嫌いを優先し、全体を判断してしまうことは、重要な真実を見落とすことになります。

 

 

日本の国情は、外来宗教である仏教を導入すること自体、極度の困難を伴なうものでした。仏教を導入するためには、王権である天皇を説得し、反対勢力と生死を賭した抗争に勝ち抜かなければならなかったのです。

 

 

韓国では、新羅の仏教受容においてイチャドンの殉教に注目します。馬子も、仏教受容のために命をかけ廃仏派と戦ったのです。それは仏教を公認させる決定的行動でした。馬子が日本に仏教をもたらした第一の功労者だったことは否定できない事実なのです。

 

 

以上のような過程を経て、日本は6世紀に仏教という高度な哲学をもつ宗教を受容し、多神教世界の国から、アジア諸国と世界観、価値観を共有する国家に変貌し、アジア文明の主流に合流したのです。この仏教受容とアジア文化の積極的受容は「古代入亜」と呼べる文明現象で、後の日本史に及ぼした影響は極めて大きなものがありました。遣隋使、遣唐使を派遣し、仏教を中心とする諸文化の体系を持ち帰り、日本文化は飛躍的に発展しました。仏教は今日も多くの人々が信じる宗教であり、長く日本人の心をアジアと結びつけたのです。


 
聖徳太子コンプレックス


聖徳太子は仏書を著わす一方で、推古天皇に仏典を進講しました。摂政という権力の座にありながら、宗教家がすべき役割も担ったのです。十七条の憲法を制定し、和の精神重視、仏教信仰、天皇尊重という国家の大きな枠組みを示す一方で、隋に対し「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」で始まる国書を送り、対等の立場を主張した外交は優れたものでした。画期的な内政、外交政策を推進し日本の基礎をつくった聖徳太子は、偉大な政治家であるとともに、仏教保護の聖人と称えられるにふさわしい人物でした。

 

 

聖徳太子が日本仏教発展におよぼした影響は計り知れません。馬子が仏教受容の最大の功労者であるならば、太子は仏教隆盛の最大の功労者と言え、両者のはたらきは相互に支え合うものでした。

 

 

世界宗教の受容期に、太子のように教義を深く理解する人物が執権者であったことは世界でも稀で、その上、人徳と功績により後に神格化されたような人物は例がありません。世界宗教受容史から見ても太子は異例な存在なのです。聖徳太子が発する光があまりに強いので、仏教受容も太子の功績のように捉えてしまいます。

 

 

日本には「聖徳太子コンプレックス」と言えるものが存在します。仏教受容期に高潔な人物が出現したため、それがひとつの「原型」となり、宗教に関わる権力者は、太子のようにあらねばならないという観念が形成されたのではないでしょうか。

 

 

それは世界宗教受容の現実とは隔たった考えです。キリスト教イスラム教の受容も、帝国と諸国の外交政策、あるいは国家や教団の生存戦略という要素がつよく作用し、受容した君主に、宗教を深く理解した人物は稀なのです。

 

 

あの「ダビンチコード」でも触れていますが、西洋ではコンスタンチヌス帝の改宗動機は疑いを持たれています。自身の離婚問題を契機にカトリックを拒絶しイギリス国教会を創立したヘンリー8世も利己的な人物でした。儒教を国教とした漢の武帝や明の洪武帝も恐るべき専制君主だったのです。世界宗教を受容した権力者は独裁的で計算高い人物が多く、その実態は宗教を利用したと言ったほうが真実に近いのです。しかし、諸外国では彼らが宗教受容、奨励に果した役割を高く評価しており、それは世界宗教受容史の常識になっています。

 

 

このような諸外国の例から見ると、蘇我馬子専制的な行動をもって、彼の仏教受容の功績を過小評価することは明らかに間違いです。日本には、聖徳太子のような優れた人物を尊崇し神格化する一方で、どんなに功があっても、欠点のある人物の役割には目を背けてしまう傾向があります。この「聖徳太子コンプレックス」は、織田信長キリスト教保護、徳川綱吉儒教奨励の評価問題にも影響しています。 

 

 

 

●繊細でひ弱な日本的世界観

 

諸国は、異民族による侵略や暴君の圧政に苦しみました。それがいかに嫌悪すべきものでも、何らかの意義を付与しなければ、歴史に空白が生まれ、自国史が自分達に益するものとはなりません。そのため否定的な過去も、「神の計らい」と受け止める歴史観をつくり上げました。中国はモンゴル王朝のような侵略王朝も、「天命」とし、正統王朝と認める歴史観をもちます。歴史を前進させるのは、決して良い事だけではないのです。

 

 

諸国の精神は、苦痛のなかから核になる部分が生まれ、国家の悲劇を「神の試練」、「天命」などと受け止め、絶対者を中心に置く歴史観を形成しました。今日でも、キリスト教徒やイスラム教徒は、深刻な事態に直面すると神に頼る思考が身についています。


 
日本人に「天命」という観念が希薄なのは、侵略や極端な暴政という艱難を経験せず、それを精神的に克服し得る、絶対者をいただく思想をもつ必要がなかったからです。世界でも稀な平和な土壌から、自然、人間を神格化し、繊細で優しい宗教観、世界観が生まれ、歴史を見るときもその思想が影響します。

 

 

日本的感性から見ると、聖徳太子は神になれる条件を完璧にそなえた人物です。反対に、馬子、信長、綱吉のような、専制的で自己主張が強く、「和」を優先しない非日本人的な人物は、恐れられ、嫌われ、彼らが宗教受容に重要な役割を果たしたなどと認めたくない心理を生みました。

 

 

三人の背後に、人智を越えた神の計らいを感じ取れず、どこまでも好き嫌いで歴史を判断してしまいます。このような思考は、彼らが宗教受容、奨励に果たした功績を排除し、自国史の重要ポイントを自分達に益するものにできなくさせます。

 

 

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日本人には蘇我馬子のはたらきに神の計らいを感じ取る感性が求められる

 

 

 

平和な歴史によってつくられた日本的発想は、大きなスケールで襲ってくる悲劇的事態に対処できない弱さを持ちます。東日本大震災でも、じっくり時間をかけ、根回しや段取りを経て事を運ぶ慣習が、復興を遅らせました。これらは平和を前提として成り立つ「和」の社会のやり方なのです。

 

 

突然襲った大津波の被害や原発事故は、侵略と同じなのです。このような凄まじい被害に対しては政府が強いリーダーシップを発揮し、一刻も早く、大規模復興計画を立て断行しなければならないのです。しかし、反対を恐れ、細かいことと調整を大事にする私達には、そのような手荒な方法は馴染みません。復興の遅延という事態も、平安のなかにながく浸かった感性から生じた、島嶼独立国家の副産物と言えます。

 

 

 

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