サンクチュアリ通信BLOG 平和戦略

世界平和戦略、日本の国家戦略から、宗教、歴史、政治など、さまざまな分野を幅広くあつかうBLOGです。 分かりやすく、面白い、解説に努めます。

《キリストから孔子へ》・欧州宣教師から朝鮮通信使に

 

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朝鮮通信使は400名を超える大使節団であった


島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-13》

  

永田正治(Masaharu Nagata)

  


徳川幕府によるキリシタン大迫害と鎖国・そして時代は、儒教強化・「朝鮮通信使」来訪に

 

秀吉が死に、宣教師は再び自由に活動できるようになりました。家康は、秀吉死亡の年にフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズースと会い、フィリピンとの通交斡旋を依頼し、翌年、ジェズースは江戸に教会を建てます。以後も、家康は通商拡大を計るため宣教師と会見したのです。

 

 

イエズス会だけではなく、フランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会の宣教師も続々と来日し、各地に教会を建て、宣教に力を注いだので信者は急激に増えました。慶長17年(1612)の全国キリシタン数は60万人に達したといいます。キリスト教信者は、秀吉のキリシタン禁令以降も、倍以上増えたのです。

 

 

キリスト教発展とヨーロッパ文化の受容は並行して進み、キリスト教の絶頂期は南蛮ブームの絶頂期でもありました。長崎を窓口とした南蛮との交流のありさまは「南蛮屏風」に生き生きと再現されています。桃山時代から江戸時代初期に描かれた南蛮屏風は、長いキリシタン禁令時代があったにもかかわらず、今日、60点余りも残されています。

 

 

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南蛮屏風のユニークさが戦国脱亜の輝きを伝える


来航した巨大な南蛮船、威風堂々としたキャピタンや活発に動き回る船員たち、陸で彼らを迎える宣教師、南蛮商人と日本人が商談し、教会が描かれています。まさにジパングで展開する異国文化の世界で、南蛮屏風を見ると日本史上この時代がいかに異質な時代であったか一目瞭然です。信長が大胆に導入、庇護した西洋文明とキリスト教が30年後には、南蛮文化隆盛と60万信者という花を咲かせたのです。

 

 

しかし、これを頂点に時代は急変します。慶長17年(1612)、岡本大八事件が起きキリシタン禁令が発せられたのです。この事件はキリシタン大名有馬晴信が、幕臣でやはりキリシタン岡本大八にだまされ、幕閣に旧領回復の働きかけをしてもらう代わりに岡本に賄賂を贈ったことが発覚した事件で、これを機に幕府はキリスト教を禁止しました。

 

 

この禁令以降、幕府のキリシタン弾圧は強化され、全国にキリシタン取り締まりと処刑が広がり、元和5年(1619)に京都、8年に長崎、9年に江戸で、それぞれ50名以上を処刑しました。寛永14年(1637)、厳しいキリシタン禁令下で、島原の乱が起き、幕府は信徒4万人あまりを殺害し、この乱を鎮圧、その後、各地で多くのキリシタン処刑がおこなわれます。翌年、ポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制を完成します。こうしてキリスト教と南蛮文化の隆盛は収束し、戦国脱亜の時代が終焉したのです。

 

 

一方、徳川幕府は南蛮に代わる新しい外交関係を持ちました。家康は文禄・慶長の役によって断絶していた明と朝鮮に国交回復を働き掛け、明はこの呼びかけを無視しましたが、朝鮮王朝は承諾し、慶長12年(1607)、日本に通信使を派遣して来たのです。

 

 

一回目の通信使は日本との修好使節で人員は467名に及びました。「信を通じる使節」という意味の通信使は、新将軍の襲職の祝いや平和を祝うために徳川時代を通じて12回派遣され、400名から500名の大規模なものでした。

 

 

徳川幕府が正式外交を結んだ国は朝鮮王朝だけで、オランダと中国は貿易国という扱いでした。オランダのカピタンが将軍に挨拶に行くときは30名ほど琉球の慶賀使、恩赦使は70名から100名程度で、朝鮮通信使は外交的地位と規模において他の使節に抜きん出ていたのです。

 

 

通信使の行列は鎖国下の国民にとっては外国文化に触れる数少ない機会で、一行を見ようと大勢の人々が沿道に集まりました。将軍襲職の祝賀雰囲気のなかで韓国独特の楽器を奏でながら異文化の大使節団がやって来たのですから、通信使の及ぼした文化的インパクトは相当なものだったでしょう。

 

 

全12回のうち半数の6回は明暦元年(1655)の4代将軍家綱の襲職祝賀までの48年間に来訪し、家光の時代には3回もやって来ました。通信使は幕府体制確立期に集中して派遣されたのです。

 

 

特に注目すべきは寛永13年(1636)、家光代にやってきた通信使の意義です。幕府は寛永10、11、12、13年と鎖国令を強化し、鎖国が完成した年に「泰平祝賀」のための通信使がやって来たのです。まさにキリスト教禁止と貿易統制という鎖国体制に突入した時、特例の通信使が韓国から来訪したタイミングは幕府外交の転換を際立たせるものでした。

 

 

 

●徳川日本は「儒教の先進国〈朝鮮王朝〉」から多くを学んだ

 

実は、このときの朝鮮王朝は日本に泰平祝賀の使節を送るような状況ではありませんでした。9年前に満州女真族の清の侵入を受け、宗主国の明と新興勢力である清との中間に立ち苦しんでいたのです。朝鮮王朝は日本の泰平を祝う一方で自国はたいへん苦しい時期でした。

 

 

使節を送った年に清軍はふたたび侵入しました。朝鮮は敗北し、翌年、国王仁祖が清の太宗に屈辱的な三排九叩頭の礼をとり臣下となり、国王の長子と第2子、諸大臣の子を人質に差し出す等の厳しい条件を呑み降伏しました。明朝は更に危うい状態で、仁祖降伏の9年後、明は滅亡し清朝による中国支配が始まりました。日本が鎖国にむかうこの時期、東アジア情勢は不安定で明朝と朝鮮王朝は国家存亡の危機に直面していたのです。

 

 

日本と中国は国交が開かれないまま、明、清の交代期になってしまいました。清との国交を考えなかった幕府は明が滅亡するとき多くの亡命者を受け入れました。儒学者朱舜水が有名ですが、数万にのぼる中国人が日本に逃れて来たといいます。

 

 

幕府は朝鮮王朝との外交を重視し、莫大な経費を使い通信使を歓待しました。通信使を通じた交流は朝鮮を朝貢国とし徳川幕府の威光を示す目的があったと思われがちですが、そのような上下関係とは言えないものでした。家康は儒教の価値を認め幕府の中に受容しましたが、日本の儒教研究は遅れていました。朝鮮は儒教の先進国で、日本は通信使を通じて儒教に関する知識、書籍などを得たのです。

 

 

両者の意思疎通は漢字の筆談で行なわれ、朝鮮側の使者は儒教の優れた知識を持つ士大夫たち、日本側は儒学者、あるいは儒教に造詣が深い人々でした。行き交う情報はほとんど儒教についてのことで、日本の学者だけではなく朝鮮の学者もこの交流で学ぶところが多かったといいます。両国の交流は事実上、儒教の交流と言えるものでした。

 

 

信長時代から日本の国際交流の中心は南蛮でした。信長は宣教師を優遇し秀吉と家康も執政初期は宣教師と交流しました。ヨーロッパからは400人以上の宣教師が派遣され、おおくが日本に長期滞在し盛んに交流を行ないました。それが1612年の禁教令以降は途絶え、一方、朝鮮通信使は大規模使節として来日するようになり、南蛮に替わり国際交流の中心的役割を演じるようになったのです。

 

 

それは外国情報の導入先がヨーロッパのキリスト教宣教師から朝鮮王朝の士大夫に変わったことを意味し、日本は知識交流という面からも、ヨーロッパ文明からアジア文明へ、キリスト教から儒教へ、すなわち、「脱亜」から「入亜」に大きく転換したのです。 

 

 

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宣教師の汗、信者の血が流された長崎、天草が、昨年、世界文化遺産に指定された

 

 


カトリック宣教師の「愛」と「独善」

 

宣教師は強い使命感を抱き日本へやって来て、身分の上下を問わずあらゆる階層の人に福音を伝えました。彼らの献身と人々に対する愛情、殉教も恐れない信仰はまことに賞賛すべきです。今日のカトリックは他宗教の価値観を認め共存、協力を目指す一方、世界の融和を訴え続けています。

 

 

しかし16世紀のヨーロッパ社会ではキリスト教が唯一の真理で、異教は悪魔とする考えが常識でした。宣教師たちはそのような教義を教育する立場の人々で、彼らに他宗教尊重を期待するのは無理なことでした。

 

 

宣教師が日本の伝統的信仰を否定し排他的宣教を行ったことは、いかに日本人の霊魂を救うという目的であったとしても、一方的なヨーロッパ文明の押し付けと言えるものでした。立場を代え、もし同時代に日本の僧侶がヨーロッパに渡り、キリスト教を批判し聖像を破壊したらどうなっていたでしょうか。

 

 

当時のヨーロッパ文明は大航海時代を開き、領土と宗教を拡げるためにアメリカ大陸や極東まで進出する強力なものでした。この文明と信長が出会って盛んな交流が成されました。信長にとってヨーロッパ文明は自分が実行したいことの大いなる示唆を与えてくれるもので、両者の文明遭遇は互いに引き合うものでした。

 

 

しかし一方で、西洋からやって来たキリスト教はアジア的価値観との共存を拒否し、文明衝突を引き起こしたのです。宗教勢力が大規模に神社仏閣を破壊するなどと言うことはこの国の歴史にかつてありませんでした。

 

 

この章の冒頭に載せた「われらは唯一のデウス、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会を唱道する。日本には13の宗派があり、そのほとんどすべてが礼拝と尊崇とにおいて一致しない」という言葉のように、日本では異質の宗教が、葛藤しつつも棲み分け共存していたのです。

 

 

スペイン人はアメリカ大陸でインカ文明とアステカ文明というふたつの文明を滅ぼしてしまいました。その後、原住民に過酷な労働を強いたため次々と死んで人口が減少し、アフリカから奴隷を投入しました。近代に至っては西洋列強の力が全世界におよび、インドはイギリスの植民地となり、中華帝国も半植民地化の運命を辿りました。これらは文明の遭遇、衝突の結果です。

 

 

私達が「南蛮の時代」から学べることは、文明の遭遇が引き起こす巨大な力を自覚することです。文明が遭遇する時、途方もない力が生まれます。しかしそれは創造的な力になるとは限らず破壊的な力になることもあるのです。文明が出会ったとき、自分達の価値観を押し出し、異なる価値観を排斥するとき、両文明間の共存余地はなくなり破壊的結果を招来します。文明遭遇が平和の実を結ぶためには異文明を尊重することが欠かせないのです。

 

 

日本は近世の初期にヨーロッパ文明に遭遇し、それと衝突する結果になりました。しかしまた自国の文明を他国に押し付けようと文禄・慶長の役という衝突を演じたのです。この文明遭遇、衝突により外来宗教を迫害し隣国の人々を殺害する結果を招きました。多くの殉教者と犠牲者を生んだふたつの悲劇は日本史の深い闇となり、文明衝突の代価の高さを私達に教えます。

 

 

戦国時代は人々の関心が高い時代で、信長は日本の歴史人物のなかで1、2位を争う注目度と人気を誇ります。戦国時代を見るとき、武将をめぐる動きだけではなく、大航海時代の波に乗り巨大なスケールで襲った文明の遭遇と衝突の意味を考え、平和のための教訓とし忘れないことが、私達にとって真に戦国時代を価値あるものにすることだと思います。

 

 

 

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Оsaka・G20と反グローバリズム世界革命

 

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大阪G20は反グローバリズム国家群が主導する

 

           

2016年10月、超大国アメリカで、反グローバリズムの巨大な中心・トランプ大統領が誕生しました。それにより、世界史の流れは大きく転換しました。

 

 

永田正治(Masaharu Nagata)

 

 

グローバリズム体制は凋落期を迎えた

 

28日から開催される、大阪G20は、香港で「逃亡犯条例」の改正に反対する大規模デモが行われている情勢で開催されます。20カ国首脳のなかで最も居心地の悪い人物は中国の周近平主席にちがいありません。反対に、最も、意気揚々とした気持ちで日本に来るのは、外交で成果を上げている、アメリカのトランプ大統領でしょう。

 

 

米・中は、激しい貿易戦争を繰り広げ、中国経済は急速に弱体化し、周主席は、香港問題と貿易問題という重い二重苦を負います。中国経済の不振は、中国と強い経済関係をむすぶドイツを直撃します。ドイツと中国は、グローバリズムを推進する、西洋と東洋の二大国家です。

 

 

反グローバリズムの立場から見るとき、大阪G20は、グローバリズム反グローバリズムのパワーが交差する画期的首脳会議になりそうです。グローバリズムが凋落し、反グローバリズムが力強く勃興する歴史的転換点です。

 

 

わずか、2年半前、トランプ大統領当選まで、反グローバリズムの勃興など、少数者の、幻のような、遠い期待でした。トランプ大統領の登場で、世界の流れは一変しました。世界の歴史に、こんな革命があったでしょうか。少数の変革を望む人々が絶望的戦いをしていたら、ある一人の指導者の登場によって、世界の動きが逆転し、一挙に展望が開けました。そして、今や、反グローバリストの人々は強い自信と希望を抱いています。

 

 

しかし、また、あまりに急激な変化なので、圧倒的多数の人々は、この変化の意味がさっぱり分かりません。おおくの官僚から学者、一般人まで、世界で反グローバリズムの変革が急速に進んでいることにまだ気づいていないのです。というより、今でも人々はグローバリズムがいいものだと信じています。

 

 

2014年に、中野剛志氏はこう指摘しました。グローバル資本主義新自由主義は、社会格差を広げ、社会のあり方を崩壊させ、国家の自律性も失わせ、経済成長すらも実現しない。しかも、絶えず危機が続く。しかし、これほど問題だらけで、理論的にも空疎なしろものを、アメリカ、ヨーロッパ、そして、日本のエリートたちも支持し続けています」(グローバリズムが世界を滅ぼす』文芸春秋)。残念ながら、中野氏の5年前の指摘は、現在もあてはまるのです。しかし、おそらく、この状態が音を立てて崩れる時は目前に迫っています。

 

 

反グローバリズム革命の拡大は、少数者から、一気に世界最強国家のトップ、そして、各階層に広がっています。そのあり方を、G20を構成する諸国家の動向から見てみましょう。

 

 

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G20国家の動向は反グローバリズムの趨勢を示す

 

 

◎ 国家の方向性、あるいは指導者が反グローバリズムに立っている国家

 

アメリカ (トランプ大統領)

 

ロシア (プーチン大統領)

 

イギリス (EU離脱)

 

ブラジル (2018年10月、反グローバリズムを標榜するボルソラノ大統領当選)

 

オーストラリア (今年の4月、反グローバリズムを標榜するスコット・モリソン首相の総選挙勝利)

 

 

トランプ大統領と思想を同じくする指導者、また、将来反グローバリズムに立つ可能

 性が高い国家

 

日本 (安倍首相がトランプ大統領と極めて良好な関係を維持)

 

アルゼンチン (南米は反グローバリズム的な傾向をもち、ブラジルに続く可能性が高い)

 

フランス  (5月のEU総選挙で反グローバリズムのルペン氏率いる「国民戦線」が勝利。EU総選挙の結果は今後の政治動向に大きな影響をおよぼす)

 

イタリア  (EU総選挙で反グローバリズムのサルヴィーニ氏率いる「同盟」が勝利)

 

トルコ  (EU加盟を目指す政策を放棄し、独自の路線を選択し、反グローバリズムに立つ可能性が大)

 

 

グローバリズム体制を維持する国家、国家連合
    (反グローバリズムの視点からはこの国家群が最大の問題国)

 

EU (世界最大のグローバリズム組織)

 

ドイツ (EUを支える強大国)

 

中国 (グローバリストによって立てられ発展した国家)

 

韓国 (文在寅大統領が、中国、北朝鮮と関係を強化している)

 

 

◎ 中間的立場の国家(しかし、反グローバリズムの方向に向かうと思われる)

 

カナダ


メキシコ


南アフリカ


インドネシア


サウジアラビア

 

インド

 

 

EUは解体に向かうか?

 

EUという「ドイツ帝国」と、そのヨーロッパ覇権構造

 

 

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イギリスに続きフランス、イタリアが離脱すればEUは解体する

 

 


反グローバリズムの観点からG20の国家構成をみると、もはや、反グローバリズムの優勢は明らかです。次に、反グローバリズムの目指すものは、世界最大のグローバル国家連合であるEUの解体です。EUの現状を、反グローバリズムの代表的知識人エマニュエル・トッド氏のドイツ帝国が世界を破滅させる』 (文芸春秋.2015)から整理してみましょう。

 

トッド氏によれば、ドイツは、事実上、EUを足場に、全ヨーロッパに君臨するドイツ帝国をつくり上げたとします。まさに、ヒットラーが戦争で果たせなかったことを、現代のドイツは経済力で成し遂げたのです。

 

これは、国境を越えて「ヒト」、「モノ」、「カネ」が自由、大量に行きかうシステムでは、最強の者が一人勝ちし、多数者が隷属することになるグローバリズムの現実が如実に表れたものです。下に提示した国家群一覧は、トッド氏が、2015年における、ヨーロッパのドイツの覇権構造を図で示したものを、分類したものです。ここでは実態を明確にするためドイツ帝国という用語を使います。

 


ドイツ帝国といえる国家群

 

ドイツ


ベルギー


オランダ


ルクセンブルグ

 

スイス


チェコ


オーストリア


スロベニア


クロアチア

 

 

ドイツ帝国自主的に隷属する国家

 

フランス 

 

◎ ロシア嫌いのドイツ帝国衛星国

 

ポーランド


スウェ―デン


リトアニア


ラトビア

 

エストニア

 

 

◎ 事実上のドイツ帝国被支配国家

 

スペイン


ポルトガル


フィンランド

 

デンマーク


アイルランド


ギリシャ


ルーマニア


スロバキア

 

 

ドイツ帝国合併途上の国家

 

ウクライナ


グルジア

 

セルビア

 

スロバキア

 

マケドニア

 

アルバニア

 

モンテネグロ

 

ボスニアヘルツェゴビナ

 

 

ドイツ帝国から離脱途上の国家

 

イギリス


ハンガリー

 

 

● かつてなかった面白い時代

 

そもそもEU(欧州連合)結成の影の推進者はバチカンでした。1990年に、ドイツが統一され、統一ドイツの巨大な国力を怖れた、超国家的宗教であるバチカンカトリックが、ドイツを一つのグローバル組織に加え、縛りつけるために、強力に推進したものです。そこには、旧東ドイツ地域にはプロテスタン住民が多く、統一ドイツはプロテスタントの比重が大きくなるという危惧もありました。結局、ドイツは積極的にEU結成を推進しました。しかし、東ドイツプロテスタント牧師の娘であるメルケル首相の時代に、ドイツはEUの主導権を握りました。実に、アイロニーに富んだ展開です。

 

 

しかし、2016年には、イギリス国民がEU離脱を選択しました。5月にEU議会選挙が行われましたが、 フランスでは、反グローバリズムに立つルペン氏が率いる「国民戦線」が勝利し、第一党になり、イタリア では、やはり、反グローバリズムのサルヴィーニ氏の「同盟」が大きく躍進しました。EU議会選挙の結果は、後の各国の選挙に強く影響をおよぼします。フランスイタリアで、反グローバリズム政党が、この余勢を駆って国内選挙で勝利すれば、この二大国は、イギリスの後を追いEUを離脱します。その時、EUは解体し、終焉を迎えます。

 

 

グローバリズムをめぐる状況で、興味深いのは、世界ではこのように急速に反グローバリズムの動きが進展しているにもかかわらず、いまだに圧倒的多数の人々が、グローバリズムを常識のように良いものだと思っていることです。

 

 

反グローバリズムの立場で、ワシントンを拠点に評論活動をしている伊藤貫氏は、今の時代は、「かつてなかった面白い時代」と言いました。伊藤氏だけでなく、反グローバリズムの人々はよくそう言い、この思いは共通認識です。圧倒的多数の人々はこの世界の大潮流を知らず。極少数の自分たちが、知ってしまっている。それが不思議で、面白いのです。

 

 

しかし、反グローバリズムに立つ私たちは安心することはできません。この流れを妨げようとするグローバリストが存在するからです。彼らはこの世界を「金」「情報操作」で支配しています。日本の政界、財界、マスコミはグローバリストの巣窟です。彼らの力は巨大です。ですから、今でも「反グローバリズム」の論調は、禁句のようにメディアには登場できません。オールドメディアで流されるのはグローバリズムを主張するものばかりです。

 

 

反グローバリズムに目覚めた私たちは、グローバリズムの弊害を人々に訴え、隣人に伝える使命を持ちます。各国がしっかりした主権意識をもち、一握りのスーパーリッチの支配をくつがえし、伝統的精神と伝統文化を大事にし、他国のそれを尊重し、そのうえで、平等で、真にインターナショナルな関係を深める世界を築かなければなりません。私たちには大きな歴史の流れが共にあります。

 

 

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秀吉の朝鮮侵攻の発案は「西洋弱肉強食の国際政治」から

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西洋国際政治は日本にとっては危険思想だった

 

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-12》

 

永田正治(Masaharu Nagata)

 


●ズバリ!他国侵攻は、信長が、西洋弱肉強食の国際政治から学んだ

 

フロイスは、信長と何度も会い長時間談話し、世界の情報を伝えました。しかし、フロイスが著した『日本史』には情報の具体的内容についてほとんど書かれていません。彼は、信長の死の翌年から『日本史』を書き始めましたが、執筆中にキリシタンをめぐる情勢は激変し、読み手が誰であれ、書くと都合が悪い内容が多くなりました。とくに、暴君であった信長と宣教師の「蜜月関係」の詳細は、もっとも書けない部分だったと思います。

 

 

フロイスは、日本の宗教、政治、国民性まで鋭く観察していた人物です。その優れた視点で、地球儀と世界地図を用い、信長に大航海時代の世界のあり様を伝えました。特に、ローマ教皇の高い権威と諸国の君主との関係、カトリック君主の強力な王権、諸国間の戦争と外交、またスペインの南米征服とポルトガルの東洋進出などについては詳しく伝えたに違いありません。フロイスが旅行のみやげ話しのようなことばかり話していた訳はなく、質が高く、核心的で、信長の未来戦略案出に有用な情報を提供したからこそ、信長は彼を好んだのです。

 

 

本能寺の変があった1582年、フロイスイエズス会総長への書簡で、信長は全国統一後に大艦隊を編成し中国を征服する構想をもっていたと報告しています。信長どうしてそんな考えを持つに至ったのでしょうか。少なからぬ研究者が、宣教師が信長に中国侵略を勧めたという「イエズス会陰謀説」を主張します。しかし、もっと単純な流れがあったと思います。信長に「国際政治」を教えたフロイスはヨーロッパの住人でした。フロイスが信長にことさら中国侵略を勧めなくとも、ヨーロッパ国際政治をアジアに適用すれば、中国を侵略するという発想は容易に導き出されるのです。

 

 

ヨーロッパの国際政治は「力」がものをいい、強国が覇を握り、弱体な国家は独立を維持することはできませんでした。諸国は常に周辺国の動向に注視し、軍事力増強と外交に力を注ぎました。1578年(天正6年)、すなわち信長が死ぬ4年前、フロイスの祖国ポルトガルでは、セバスティアン王がモロッコの王位継承問題に介入し、アフリカ遠征を行ないます。この遠征は失敗して、王は戦死し、2年後、今度はポルトガルが王位継承問題に付け込まれ、スペインに併合されてしまいます。このようにヨーロッパの国際政治では、他国に少しの隙でもあれば、軍事、或いは外交的介入をし、支配するのが普通のことでした。このようなヨーロッパの弱肉強食の国際政治をありのままに伝えても、アジアにとっては、危険な侵略の思想になり得るのです。

 

 

当時の東アジアでは、中華帝国は周辺国が儀礼的な臣従さえすれば満足し、朝貢して貢物をよこせばそれ以上のものを与えました。その背景には、国家間の関係にも「礼」を重んじる儒教の思想があります。特に、明朝と朝鮮王朝はともに儒教を篤く尊崇する国家で、双方を礼の国と認め、長く平和的関係を維持したのです。日本もそのような国際秩序のなかで平和を享受しました。 

 

 

中国を征服するには、まずこのような東アジア国際関係の常識を打ち破らなければなりません。そしてヨーロッパ伝来の新兵器である鉄砲の威力と、中国を尊重する意識からの自由、他国を侵略することへの躊躇がなくなる必要があります。 

 

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近代的世界観が中国中心の秩序意識を打破した


ヨーロッパの科学技術が生んだ鉄砲は、信長が実戦に活用しました。中華王朝を中心に戴く伝統的国際秩序を尊重する意識は、もっと大きな世界があり、強力なヨーロッパが存在するという、宣教師が伝えた近代的世界認識で転換しました。信長の、他国を征服するという発想の背後には、ヨーロッパ国際政治の情報がありました。文禄・慶長の役には、このようなヨーロッパ世界から流入した情報と技術が、大きな背景として存在したのです

 


 
キリシタン禁教・南蛮ブーム・唐入り


 
信長の死後5年間は、秀吉が信長のキリシタン政策を継承したので、宣教師は自由に活動ができました。しかし、天正15年(1587)、秀吉は突如、バテレン追放令を出します。これはキリスト教の部分的禁令でした。宣教師たちを国外に追放し、キリシタン大名など地位の高い人物の信仰は禁じましたが、庶民が信仰することは黙認したのです。

 

 

バテレン追放令」の1条は「日本は神国で、キリシタン国より邪法を布教することは、はなはだ良からぬことである」、二条は「大名が領地の者を奨めて門徒とし、神社仏閣を破壊しているが、前代未聞である。-」としており、発令の動機がキリスト教国家とキリスト教、またその宣教方法に対する不信であることが分かります。

 

 

これを見ると、信長と秀吉のキリスト教に対する考えの違いが明らかです。信長はバテレンを好み彼らの知識とその背後にあるヨーロッパ文明に関心をもち、神社仏閣の破壊は問題にしませんでした。秀吉は、ヨーロッパにも宣教師の知識にも関心を持ちませんでした。しかし、「人たらし」と言われたようにキリシタンに対しても愛想よく振る舞ったので、信長より御し易しと思い、宣教師たちはつい言動が大胆になってしまいました。西洋人には秀吉の「腹芸」が判らなかったのです。

 

 

宣教師コエリョは、自分たちは九州のキリシタン大名を動員できると豪語し、追放令の発せられる9日前には、日本船では太刀打ちできない強力な小型軍艦(フスタ船)を誇らしげに秀吉に見せています。これらは秀吉の歓心を買おうとしたものでしたが、それどころか極めて危険なことでした。しかも秀吉は、九州遠征で、当地におけるキリシタ勢力が強いこと、また大村純忠が長崎をイエズス会に寄進した事実を知っていました。

 

 

フスタ船に乗り込んで気さくに振舞っていた秀吉が、その直後に、突然バテレン追放令を発したことは宣教師たちにとっては青天の霹靂でした。しかし、追放令は徹底したものではなかったので、キリスト教は一時的に打撃を受けましたが、試練に耐えさらに発展を続けました。

 

 

天正19年(1591)、ヴァリニャーノがポルトガル領のインド副王の使節として、使命を終えた少年遣欧使節を連れて来日します。秀吉は、彼らを正式使節として認め、聚楽第で盛大に歓迎し、始終上機嫌で、4人の少年が歌うグレゴリオ聖歌に聞きほれ、3度も繰り返し歌わせました。

 

 

この時の使節一行の、行列の華麗さが群衆を魅了しました。彼らはヨーロッパの王室、貴族から贈られた最高級の衣服を身にまとい、洋式馬具をつけたアラビア馬をはじめ、豪華な贈物とともに整然と聚楽第にむかったのです。当時、南蛮文物は大量に日本に流入し、高級品として扱われていましたが、人々がこれほど豪華な南蛮文化のパノラマを目のあたりにするのは初めてのことでした。

 

 

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戦国脱亜は「南蛮の時代」を意味した

 

秀吉はバテレンを追放しても南蛮貿易は奨励したので、ヨーロッパの文物はポルトガル船でどんどん持ち込まれました。それらは高価で取引され、人々は争って購入しました。この南蛮ブームは庶民にまでおよび、当時を「南蛮の時代」と称してよいほど、この異国趣味は高揚したのです。

 

 

南蛮の文物のなかには、ロザリオ(十字架がついたカトリックの数珠)などのキリスト教関係の品物も多く含まれおり、南蛮ブームは文明をおなじくするキリスト教拡大の温床になりました。禁令下にもかかわらず、秀吉統治時代に全国のキリシタン数は、15万人から2倍の30万人に増加したのです。

 

 

慶長1年(1596)、浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂流して入港し、ひとりの船員が役人に世界地図を指し、スペインの領土が広大であること、スペインは「まず宣教師を送り布教し、その後軍隊を派遣してその国を征服する」と言ったことが秀吉に報告されました。そして起こったのが「26聖人殉教」です。外国人宣教師9人と日本人信徒17人が京都で捕らえられ、長崎で磔刑にされました。この処刑はキリシタンに警告を与え、人々の見せしめにする意図で行われましたが、26人の殉教はかえってキリシタンの信仰を高揚させたのです。

 

 

文禄1年(1592)、秀吉は文禄・慶長の役を起こしました。この戦争は朝鮮半島で戦われましたが目的は中国征服でした。秀吉の中国征服の意思は、信長死亡の3年後である天正13年(1585)には、側近に表明していたことが史料で確認されます。この時は、秀吉の覇権が確立してから幾ばくも経ておらず、秀吉は信長の中国征服構想を知り、それを踏襲したと考えるべきです。

 

 

「戦国脱亜」は、当時としては、極めて特殊な中国観をもつ権力者が、中国征服を行なうため朝鮮に侵攻し、明と戦い、中華帝国と修復不可能な亀裂をつくった国家の行動として展開しました。秀吉は、慶長の役のとき兵士の戦功を確認するため、倒した敵兵の鼻を切り日本に送らせました。それらが収められているのが京都の耳塚です。また、多くの韓国の人々を奴隷として連行し日本で売りさばいたのです。

 


 
秀吉が死に、日本軍は朝鮮半島から撤退します。その後、再侵攻を考えた人物はいません。日本にとって外国に軍を派遣することは、およそ1000年も前に百済支援のため朝鮮半島に兵を出したとき以来のことでした。まして侵略戦争を行なったのは歴史はじまって以来のことだったのです。

 

 

島嶼独立国家にとって外国侵略はその伝統から大きく逸脱するものでした。どんな勇猛な戦国武将でも外国に行って戦うことなど夢にも思わないことなのです。それを早くから考えていた唯一の人物が織田信長です。秀吉の「唐入り」の発想は、彼が神のごとく崇め従った信長から学んだことだったのです。

 

 

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中天に輝くキリシタンの栄光・信長はここまでキリスト教を優遇した !

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信長は天皇が求めても献上しなかった安土城屏風絵を宣教師に与えた

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-11》    

 

永田正治(Masaharu Nagata) 

    

キリスト教宣教師を公家と同等に扱った「馬揃え」

 

村重謀反の翌年、イエズス会の巡察師アレクサンドル・ヴァリニャーノが来日しました。彼はイタリア貴族出身、長身、端正な顔立ちで、すぐれた見識を兼ねそなえた傑物でした。東洋での宣教活動をとり仕切る大きな権限をもち、日本教会の規律を定め、宣教地区を五畿内、豊後、下(豊後以外の九州地域)の3地域に分けました。また有馬に神学校セミナリヨ、府内に聖職者を育成するコレジョ、臼杵に修練院を設立するなど、教育機関を整え、大村純忠から、長崎と茂木の寄進を受けたのです。

 

 

天正9年(1581)2月、ヴァリニャーノは帰国に先立ち、信長に挨拶するため、フロイスらを伴って京都へ赴きました。信長は、巡察師を長時間にわたり会見し、手厚くもてなし、巡察師と在京の宣教師を、京の市中で行なわれる「馬揃え」に招待しました。馬揃えとは、信長の威光を誇示するため、武将らが華麗な衣装をまとい、飾り具を付けた馬に乗って行なう軍事パレードで、これを一目見ようと、諸国から20万人にものぼる群集が集まったといいます。

 

 

天皇、公家、高位の僧侶が招待されるなかで、ヴァリニャーノら宣教師も貴賓として特設の場が設けられ、格別の待遇でもてなされたのです。信長は、行事の途中、巡察師が献上した金の装飾を施した深紅の椅子、まさに「玉座」に座り、自らが優越した存在であるということを人々に見せつけました。

 

 

馬揃えの行事は信長の権威を示す行事でしたが、キリスト教の栄光をあらわす絶好の場にもなりました。最も権勢ある人物が、天皇や権威ある人々とともに、宣教師たちを貴賓として招待した事実は、キリスト教の宣教師が当時の階層秩序のなかで極めて高い地位を獲得したことを意味し、天下に示され、その名誉はキリシタン全体におよびました。

 

 

 

安土城で極まった信長のキリスト教優遇

 

夏になり、ヴァリニャーノは安土城を訪れました。信長は歓待し、おおくの使者に城と宮殿を案内させ、彼自ら3度も姿を見せ、宣教師たちと長時間会談しました。盆の日に、信長は、巡察師に見せるため、天守閣を提灯でライトアップさせ、城から下る道に、たいまつを持った群衆を両側に配列させ、そのあいだを若侍と兵にたいまつを振りかざして疾走させたのです。まさに、信長らしい奇抜なパフォーマンスで、いやがうえにも、安土城の主人とキリスト教宣教師の強固な結びつきを印象付けました。

 

 

巡察師が別れの挨拶に行くと、なんと、信長は、大事にしていた安土城を描いた屏風を与えました。これは狩野永徳安土城を中心に町の全体を精巧に描いた逸品で、天皇が所望しても献上しなかったものです。ヴァリニャーノは感激し、ローマ教皇への贈物とするといいました。そして、ヴァリニャーノ一行の帰路、多くの貴人が安土屏風を見るために集まったので、京都、堺、豊後などで公開したのです。この出来事は、信長のキリシタンへの格別な好意を、強烈なインパクトをもって、再び天下に知らしめました。

 

 

歴史には驚くべき瞬間がありますが、ヴァリニャーノ巡察師の畿内訪問中における馬揃えと、安土城での一連の出来事は、日本史のなかでも特筆すべき「奇観」であると思います。まさにこれは、信長という特異な個性と異文明の宗教が接触し、スパークして強い光を放った光景と言えます。

 

 

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おそらく天正少年遣欧使節は日本が送った使節の中で最もインパクトが大きかった使節

 

 

天正少年遣欧使節という、「東方の三王国」のキリストの証人

 

ヴァリニャーノは大成功した畿内訪問の帰路、壮大な計画を発案します。それは、4人のキリシタン少年をローマ教皇への使節として派遣することで、しかも、九州のキリシタン大名である、大友、有馬、大村の「三人の王」の名代という使節です。

 

 

大名の子が使節になれば「王子」であり理想的ですが、大名が危険な旅に子息を送り出すはずはありません。ヴァリニャーノは、大名の親族の中から4人の少年を見出し、使節としますが、彼らは、ヨーロッパで、王子でもないのに、「王子」をはるかに超える、最高の待遇で迎えられたのです。これが「天正少年遣欧使節」です。

 

 

ヴァリニャーノはインドのゴアまで少年達を連れて行きますが、そこでインド管区長に任命され、インドからは宣教師メスキータ(ユダヤ系)が少年達を連れて行くことになりました。少年達は長い旅のあいだ、宣教師からキリスト教教理と、イタリア語、スペイン語ポルトガル語などの語学、音楽やヨーロッパの礼儀作法などの教育を受け、使節に相応しい教養を身につけます。

 

 

この少年使節は、ヨーロッパのカトリック諸国からセンセーショナルな出来事として注目され、驚くべき大歓迎を受けました。当時のカトリック教会は宗教改革の影響で、イギリスやヨーロッパ北部を失い、プロテスタントの凄まじい勢力拡大に悩まされていました。そこへやって来たのが、カトリックを受容した「東方の三王国」から派遣された王子たちですリスボンに着いた使節は、スペイン国王フェリペ2世をはじめ、通過する地域の諸侯に最高の待遇でもてなされ、ローマ教皇庁では、国王に対する儀礼で迎えられたのです。

 

 

1585年の3月、教皇グレゴリウス13世は公式会見し、そのとき教皇は涙を流しました。東洋伝道の成果を示すこの会見は、グレゴリオ暦(太陽暦)を採用し、聖職者教育機関の整備、アジア、アメリカ大陸の布教に力を注いだ教皇の最後の栄光となり、翌月、83才で他界したのです。

 

 

教皇のシスト5世は、少年使節と会見し、彼らに即位の儀式に名誉ある役を与え、祝祭の主賓としました。教皇がラテラノ教会に赴く行列にも加わり、この時の行幸図には4人の姿が目立つように描かれています。

 

 

この使節は様々なことを象徴しています。ローマ・カトリック教会が宣教師たちに託した願いは、まさにこのような瞬間を迎えるためでした。大帝国スペインにとっても、世界進出を正当化する、聖なる使命の成果がこの使節によって証明されたのです。そのため、教皇は涙し、ヨーロッパ世界最強の君主であるフェリペ2世は、使節を起立して迎え、ひざまずく儀礼を押しとどめて、親しく抱擁したのです。

 

 

一方、使節を送り出した日本側も、権力者信長がヴァリニャーノを国賓に対するような待遇でもてなし、貴重な安土城を描いた屏風を教皇への贈物としました。使節を送った3大名も、幾多の試練を克服し信仰を貫いたカトリック信者でした。しかも、帰国した使節を太閤秀吉は正式使節として認め歓待したのです。少年使節ローマ教皇に派遣した正式の日本国使節だったのです。

 

 

使節は、新・旧キリスト教の対立という背景、しかも教皇交代期にやって来たので、ことさら喧伝されましたが、これはアジアとヨーロッパ間の、宗教を中心とした壮大な交流であり、しかもヨーロッパ側が切実に望むものでした。また、日本が過去、外国に送った使節で、これほど多くの国々から強い関心が向けられ、熱い歓迎を受けた使節はなかったと思います。

 

 

この天正遣欧使節の経緯をみても、戦国脱亜というものが、ヨーロッパ・カトリック教圏の世界への進出がきっかけとなり、それを受け止めた信長とキリシタン大名、そして信者達の協働という、国際的背景を持つものであったことが分かります。

 

 


 
キリシタンの王国・戦国脱亜の背景

 

信長と他のキリシタン大名では、その力量と影響力は隔絶していました。大村純忠有馬義貞は、竜造寺隆信など宿敵の脅威に直面しており、大きな利益を与えてくれる南蛮貿易と南蛮の武器に領国の保全を頼っていました。大友宗麟は強力な武将でしたが、宗麟のキリスト教保護は、妻をはじめとする反対派、それと結びついた仏教、神道勢力による妨害に悩まされ、外からは薩摩島津家の脅威にさらされました。

 

 

信長の力と威光は圧倒的で、彼のキリスト教保護は、身内と軍団はもとより、その勢力圏であれば、朝廷や仏教教団などの伝統勢力も反抗できませんでした。信長への恐れが反対を封殺したのです。信長勢力圏は、専制的権力者の格別な庇護を受け、キリスト教徒が何者も恐れず宣教ができた「キリシタン王国」だったのです。

 

 

フロイスは「日本覚書」のなかで、「われらは何にもまして悪魔を嫌い憎む。仏僧らは悪魔を敬い礼拝し、悪魔のために寺院を建て、またこれにたいそうな犠牲を捧げる」と記しています。これが宣教師の仏教観で、その影響を受けたキリシタン大名たちは、領民にキリスト教への改宗を迫り、仏教と神道を排除し、神社仏閣を破壊したのです。偶像破壊と強制改宗はヨーロッパでは盛んに行われましたが、宗教のあり方が異なる日本でこのような布教が可能だったのは、それが信長の思想に反することではなかったからです。後に、日本的宗教観を持つ秀吉は、この宣教方法を問題としキリスト教を禁止することになります。

 

 

アジア伝来の仏教は、神道を排除することなく、融和して日本に深く根を下ろし、古来の日本とアジア文明を融合させました。ところが、ヨーロッパから伝来したキリスト教は、仏教や神道との共存を拒否し、キリシタン勢力圏は、非アジア的、非日本的な世界を形成したのです。それと、覇者信長の伝統的価値観を否定する意識が共鳴しました。これが戦国脱亜の思想的背景と言えます。

 

 

 

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日本史の一大奇観・なぜか、信長の異常なキリスト教保護

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魔王信長、宣教師フロイスの勇気に感動す

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-10》

 

 

永田正治 (Masaharu Nagata )


 

●信長、フロイスの勇気に感動する (二条城での会見)

 

永禄12年(1569)の4月3日、今度は、信長が会見を申し出、場所は二条城の建設現場を指定しました。信長は、堀の橋の上でフロイスを待ち、橋の板に腰を下ろして談話を始めました。

 

 

信長はフロイスの年齢、ポルトガルとインドから来てどれほどになるのか、どのくらいの期間勉強したか、親族はポルトガルフロイスと再会したいと願っているか、ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るか、また、どれくらいの道のりなのか、そして日本にデウスの教えが広まらなかった時には、インドへ帰るかどうか等の質問を立て続けにぶつけました。

 

 

フロイスは最後の質問に対して、たとえ信者が一人でも、その者のために終生日本に留まる決意であると答えたのです。また、宣教師たちが、どんな動機でこのような遠国までやって来たのかという問いに対しては、日本に救いの道を教えること以外は、如何なる現世的利益も求めないと答えました。信長は、危険な航海を顧みずやって来た宣教師の勇気と、堂々とした返答に大変感銘を受けました。それは次にとった言動で判ります。

 

 

群集が、ふたりの様子を見ていましたが、そのなかには僧侶もいました。信長は、僧侶を指差しながら大声で、「あそこにいる欺瞞者どもは、汝ら(キリスト教宣教師)のごとき者ではない。彼らは民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしいものがある。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また彼ら(人民)に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と言い放ったのです。(フロイス『日本史』)

 

 

信長は、政治権力をもつ仏教勢力を抑え込もうとしていました。この言葉には、世俗権力を持ち、自分に反対する僧侶への不信と、世俗的利益を求めず、遠い異国からやって来た宣教師に対する好意という、彼の、仏教とキリスト教に対する認識があらわれており、それは生涯変わりませんでした。翌年、信長と石山本願寺との対立は激化し、2年後にはあの延暦寺焼打ちを行なうのです。信長のキリスト教保護は仏教弱体化政策と表裏をなすものでした。

 

 

4月8日、信長はキリスト教布教許可の朱印状を与えました。フロイスは、7本の銀の延べ棒を献納しようとしましたが、信長はこれを受け取らず、無償で朱印状を与えたのです。信長はフロイスを自室に通し、自身が飲んだ茶碗で茶を飲ませ、美濃の干柿を振舞い、ヨーロッパとインド事情に関心を示し、話は2時間余りに及んだのです。信長は、自分が岐阜に帰る前にふたたび来訪するようにフロイスに言い、その時は、ヨーロッパの綿織りの服を見せてくれと頼みました。他の贈物は受け取らなかったのに、先回のビロードの帽子といい、綿織りの服の依頼といい、ファッションに強い関心をもつ信長の趣向をよく表しています。

 

 

信長は4月29日、フロイスと僧侶日乗の宗論(教義論争)を行なわせ、300人余りの信長軍団の主だった人々が参席しました。フロイスの日本語能力は充分ではなく、ロレンソという琵琶法師出身のイルマン(修道士)が議論に立ち、神の存在有無を中心に、激しい論争を展開しました。

 

 

宗論はキリシタンの圧勝で、日乗は論争最中に怒りだし、信長の面前であるにもかかわらず、ロレンソに切りかかったので、数人の者に制止されました。このなかには秀吉も居たといいます。信長は日乗のふるまいを激しく非難しました。この宗論の結果、キリシタンの教えに好意を抱いていなかった家臣も考えが変わり、京の市中にもこの顛末が伝えられたのです。

 


 
 岐阜城での信長の驚くべき行動、そして、信長とキリスト教は連合す

 

宗論に敗れた日乗は、キリシタンに激しい憎しみを抱き、朝廷にはたらきかけて、再び宣教師追放の綸旨を発させ、市中に不穏な動きもあり、キリシタンに危険が迫りました。フロイスは信長に助けを請いに岐阜城に赴きました。信長は、突然訪ねてきたフロイスを暖かく迎え、山のふもとにある館の内部を自ら案内して見せ、フロイスはこの館の巧妙なつくりと美しさに感動しました。

 

 

その後、信長は山上の城で驚くべき行動をとります。食事のとき、フロイスの膳を自らが運び、日本人修道士のロレンソには、次男の信孝に運ばせたのです。予想外の事態にフロイスは驚き、膳を頭上に戴いて感謝の意を表しました。

 


 
当時は戦乱の時代で、政治は不安定でした。そのような時代には、権力者の直接的行動が強い影響力を持ちます。岐阜城でのこの出来事はすぐに岐阜城下から京都へ伝えられ、信長がキリスト教に対し並々ならぬ好意を抱いていることが広く伝わり、日乗をはじめとする反対派は、これ以上の妨害は行なえなくなりました。

 

 

信長軍団は親キリスト教勢力となり、信長の影響下にある地域では、キリスト教が歓迎されるようになったのです。そのような連鎖反応を誰よりも知るのは信長自身で、後に、自分のこの日の振る舞いは、バテレンの名声を高めるためであったと語っています。これは事実上、信長とキリスト教の連合が成立した瞬間でした。この時を境に、人々のキリシタンに対する見方は一変し、日本におけるキリスト教の躍進が始まったのです。

 

 

岐阜城でも、2人は3時間ほども話し、信長は自然の構成要素である、地水火風や日月星辰、寒い国や暑い国の特質、諸国の習俗について質問し、その答えに満足したのです。フロイスルネッサンス期の教養を身に付け、人並み外れた好奇心で物事を観察する人物で、ポルトガル王室の秘書庁で働いた経歴もあり、貴人との接触も慣れていました。彼は優れたメッセンジャーであるとともに、文章家で、彼の書いた『日本史』は戦国時代を知る貴重な文献です。

 

 

信長はフロイス18回も会い、親しく語り合いました。そこで信長が得た情報は、中国皇帝、朝鮮国王といえども知らない世界の最新情報でした。信長は事実上、当時の東アジアでもっとも優れた外交ブレーンを持つ権力者と言えたのです。

 


 
天正2年(1574)には、大村純忠が全領のキリスト教化を断行し、領民にキリスト教への改宗を強要し多くの信者を獲得します。天正4年には、有馬義貞、6年には、大友宗麟が洗礼を受けました。天正5年には、京都に「南蛮寺」が完成し、ザビエルがキリスト教を伝えてから28年を経て、首都京都に教会が建てられ、この異国風の建物は京の名所になりました。

 

 

キリスト教発展は信者数に表れています。信長とフロイスが会った翌年(1570年)のキリシタン数は京都で700人、全国で26000人でしたが、12年後の1582年には、京都で25000人となり36倍、全国で150000人に上り、6倍に増加し、キリスト教は一大宗教勢力に成長したのです。

 

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高山右近の本物の信仰がキリシタンを救う

 
  キリスト教は、高山右近の信仰で信長の信頼を獲得した

 

 

ところが、天正6年(1578)、信長とキリシタンのあいだに大問題が発生します。高山右近の父子は高い地位と人望とによって、畿内キリシタンの代表者のような存在でしたが、彼らの上司である荒木村重が、信長に不信を抱き、本願寺と通じ、在岡城に立てこもり叛旗をひるがえしたのです。

 

 

京都支配を軸に勢力圏を拡張していた信長にとって、京の近くで起こったこの謀反は、有利な状況を一気に覆しかねない極めて危険な動きでした。信長は、宣教師オルガンティーノを通じて、右近に対し投降して、高槻城を明け渡すように強く催促しました。

 

 

高山右近は、村重に翻意を促すため、在岡城に赴くとき、自分の嫡子と妹を人質として同行させました。村重は右近の誠意に心を動かされ、信長に許しを請いに城を出ましたが、反対する重臣達に城に連れ戻されてしまったのです。

 

 

この深刻な事態に、信長は、泣きすがるような表情すら浮かべ、オルガンティーノに高山父子が協力するよう働き掛けることを要請しました。もし、右近が信長を裏切るようなことがあれば、キリシタン全体に災いが及び、宣教が壊滅的打撃を被ることは火を見るより明らかでした。

 

 

右近は、人質を取られる一方、自分の決断如何が、キリスト教の運命を左右するという身を引き裂かれるような立場に追い込まれたのです。進退に窮した右近は、捨て身の行動に出ました。すべての地位を投げ出し、髪を剃り落とし、紙の衣を着て、信長に許しを請うたのです。信長はこれを受け入れ、右近を元の地位に復させました。

 

 

高槻城は開城し、在岡城への攻撃が開始されました。包囲は長期に及びましたが、村重は城を脱出し、尼崎に落ち延び、兵士らも撤退しました。信長は、村重の妻と2人の娘、近親36名を処刑し、貴婦人120名を磔に処し、514名の男女を小屋に押し込め焼き殺すという残虐な報復をしました。

 

 

信長を襲った危機は、オルガンティーノの協力と高山右近の捨て身の行動によって解決することができました。信長は、裏切りが常の戦国の世に、キリシタンは裏切らないことを知り、彼らを深く信頼し、以前に増す庇護を加えるようになるのです。

 

 

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戦国キリスト教・激動ヨーロッパから激戦日本に

 

 

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ザビエル来訪は躍動する戦国脱亜時代を拓いた



 島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-9》



永田正治 (Masaharu Nagata) 

         

われらは唯一のデウス、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会を唱道する。日本には十三の宗派があり、そのほとんどすべてが礼拝と尊崇とにおいて一致しない。
         (『フロイスの日本覚書』松田毅一・E.ヨリッセン 中央公論社)

 

 

                * * *

 

          
 ●中国からヨーロッパへ、先進知識の供給源が大転換

 

戦国時代の末期、日本にやって来たカトリックの宣教師は、ローマ教皇の意をうけ、キリスト教を布教するため海外にのり出したイエズス会の司祭たちでした。彼らを支援したのは、ポルトガルスペインで、両国は大航海時代をひらき、世界に領土を拡張するキリスト教の帝国で、ヨーロッパ拡大の先兵となった国々です。当時のヨーロッパは、宗教改革によりプロテスタントが勃興し、カトリックとのあいだで、凄惨な宗教戦争の時代に突入していました。宣教師たちは、内には宗教間の葛藤、外には征服という、激動するヨーロッパから戦国動乱の日本へ、まさにその絶頂期を迎えようとしている時にやって来たのです。

 

 

このカトリックの宣教師たちを保護した信長は、「戦国の申し子」のような人物でした。彼は、敵を倒し勢力圏を拡大するため、鉄砲活用や経済集中など、時代の新機軸を次々に打ち出しました。その信長も、宣教師に対してだけは、彼らの知識を貪欲に求める探求者であり続けたのです。彼は、宣教師を通じ、地球が球形であること、アジアを越えてさらに大きな世界があること、世界情勢、ヨーロッパの宗教、政治など、多くの情報を得ました。

 

 

先進知識の情報源がヨーロッパになり、ながく、知の発信地であった中国の役割は失われました。「日本・唐・天竺」という世界認識から、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカまで広がる、近代的世界認識を持つようになり、中国はただの隣国となったのです。それらの知識は、今日では常識ですが、当時の日本人にとっては、宣教師以外には得られない最先端の知識でした。

 

 

 

 バテレン(宣教師)は、信長の国家戦略構想のブレーン

 

他の戦国大名が、領国経営と周辺情勢に目を奪われているなか、信長のみが、世界の中での日本という視野を持ち、日本をも越え、全国統一後は中国を征服するという途方もない構想まで、宣教師フロイスに語っていたのです。

 

 

よく、信長は、ヨーロッパの文物を得るため、宣教師を優遇したと説明されますが、彼はすでにフロイスが驚くほど多くの南蛮文物を所有しており、鉄砲は国産化され、入手には宣教師を通じる必要はありませんでした。信長は、「もの欲しさ」などではなく、宣教師を通じて、世界の情報を得、日本統一後の国家構想を案出するため、またヨーロッパ世界と通交するため、すなわち彼らを「ブレーン」として、あるいは「外交官」として特別な処遇をしたのです。

 

 

ヨーロッパのキリスト教拡大は、キリスト教国家の文明力と国力を背景としてなされましたが、遠方に位置するポルトガルが、日本に及ぼせる影響力はごく限られたものでした。ローマ帝国キリスト教を公認したとき、キリスト教は大勢力でしたが、当時の日本のキリスト教は脆弱で、宣教師は京都から追放され、まさに風前の灯の運命でした。

 

 

古代の仏教と、戦国のキリスト教は、やって来た地域は異なりましたが、伝来後の状況は似ていました。国内基盤が脆弱で、王権である天皇は、受容に消極的、あるいは反対し、既存勢力の強い反発を受けたため、馬子も信長も、反対を押し退けて保護しなければならなかったのです。日本は、仏教もキリスト教も、教えの発祥地から遠くはなれ、両宗教を受容した帝国との関係も希薄で、帝国の征服や圧力、あるいは外交関係により宗教が伝わらないという条件が、同一でした。

 

 

そのため、世界宗教の受容と奨励を一手に請負う実力者が求められ、その人物の役割が大きなものになりました。古代における仏教受容の「請負人」が蘇我馬子で、戦国時代のキリスト教受容の「請負人」が信長でした。

 

 

信長はキリスト教に対し、人々が驚嘆するほど好意を示しましたが、これは人々から恐れられた人物が行う、極めて効果的な庇護策だったのです。信長の後押しにより、短期間に、キリスト教は大勢力に成長し、この南蛮宗教が一世を風靡する時代をつくりました。このような保護政策を実行したのが、天皇でも将軍でもない一人の有力武将信長であったことも、島嶼独立国家の世界宗教受容の特徴をあらわしています。日本には、世界的文明や世界宗教との遭遇期に、忽然として、日本の枠を超える強い改革意思をもつ人物が現れますが、信長はそのような人物の代表といえるでしょう。

 

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秀吉の朝鮮侵攻のルーツは何か?

 

●中国侵攻の発案者は秀吉ではなく信長だった!

 

宣教師と出会った13年後、信長は本能寺の変に斃れました。彼の壮大な野心は、後継者秀吉に受け継がれ、文禄・慶長の役を引き起こしたのです。この戦争は信長の遺産と言ってよいものでした。今日まで、朝鮮侵攻は秀吉の発想で行われたと思われて来ましたが、この戦争を、日本を神国とし、天皇を崇拝した秀吉の責任に帰すことは、日本が本来的に侵略性や野蛮性を持つ国であると誤解される余地を提供し、「神国‐天皇‐秀吉‐武士‐侵略」という荒唐無稽な構図が成立する危険があります。戦前には日本自身が、秀吉は愛国者天皇を尊び、外国を征伐した英雄と称えたのです。

 

 

日本の歴史上、他国侵略のために兵を発したのはこの時が初めてで、海外侵略は、島嶼独立国家の伝統から逸脱する行為でした。秀吉は信長のように、日本を根本的に変革するような発想は持たず、天皇を戴き、日本の伝統を継承し、武家と貴族を合わせた政治体制をつくりました。しかし、アジアに対する認識と、中国を征服するという計画、すなわち海外認識と国家戦略は信長の発想を踏襲したのです。

 

 

そもそも日本には、中国を軽視する風潮はありませんでした。権勢を誇った足利義満ですら明朝に臣従しようとし、戦国大名も保守的な人物達で、中国観は古来のものでした。中国も征服可能な普通の外国とする考えは、信長と秀吉の中国観なのです。多くの人々はこのような意識を持てるはずもなく、秀吉の朝鮮侵略も人々は疑いを持っていたのです。

 

 

6世紀、日本はアジア伝来の宗教である仏教を受容し、アジアと強く結ばれました。1000年のあいだ、アジアを尊重していた日本が、戦国末期、ヨーロッパ文明との接触の衝撃により、突如として、国家意思決定者のアジア観が変化し、中国侵略の野望を抱き朝鮮半島に侵攻したのです。この転換は、「戦国脱亜」と言えるアジア観と国家戦略の大変化で、ヨーロッパとの交流により科学技術は発展しましたが、島嶼独立国家を変貌させ、人々の価値観を混乱させました。それは、江戸元禄時代にいたり、儒教と仏教を強力に奨励することにより、国民が価値観の安定を取り戻す時まで、負の影響を及ぼしたのです。

 

 

また、戦国脱亜はヨーロッパ国家の圧力がないにも拘わらず、信長が、積極的に、キリスト教とヨーロッパ文明を受容して主導したもので、西洋列強の圧力によって引き起こされた「明治脱亜」よりも、自発的な、脱亜の原型とも言える日本史上の特殊時代でした。

 

 

 

 ●信長、宣教師フロイスと邂逅 戦国史を変えた出会い


  
永禄12年(1569)3月、信長は綸旨(天皇の命令)で堺に追放されていた宣教師ルイス・フロイスを京都に帰還させました。これは、いかに朝廷の力が弱い時代でも、大変な越権行為で、王権が厳に禁じた宗教を、しかも王都で、信長という、一実力者が独断で許可するという、おそらく世界の宗教史上おこり得ない出来事でした。

 

 

信長は、フロイスの京都到着3日後、宣教師一行を接見しました。彼らは謝礼として、大きなヨーロッパの鏡と孔雀の尾、黒いビロードの帽子とベンガルの籐の杖を携えて行きました。一行は、奥に通され食膳を饗されましたが、信長の対応は、遠くから宣教師をじっと観察するだけで声もかけず、贈物のなかで、ビロードの帽子だけを受け取るという異様なものでした。

 

 

後に、信長はこの行動について、「遠方から渡来した異国人をどう扱ってよいものか判らず、宣教師と二人で話せば、自分がキリシタンになることを望んでいると疑われることを案じたため」、とその理由を語っています。

 

 

さすがの信長も、はじめて見る異国人、しかも都で物議をかもしているキリシタンバテレンに対して、下手に扱えば政治的負担を負うことにもなりかねないので、どのように遇してよいか迷ったのです。この、信長とフロイスの出会いから、日本の戦国時代の様相が一変する激変がはじまるのです。

 

 

 

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「原版エクソシスト」の真実・ホラーは宗教か?

 

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エクソシストは愛の勝利の物語

          

 永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 


●ホラーの本質と「エクソシスト

 

人は「怖いもの見たさ」という心理があります。とくに若者には強く、ホラー映画や恐いテレビ番組などはたいへんな人気があります。ホラーは、霊的存在である悪魔や呪いがテーマとなるものですから、明らかに宗教的です。その背景は、過去に人が人に対して犯した恐ろしい行為です。

 

 

これは、宗教はつよく意識します。罪や業と規定し、解決しなければ人は救われません。しかし、悪魔、呪い、怨念などは、本来あってはならないものとして、必要以上に表にあらわしません。むしろ反対のものである、神や仏、賛美、許しなどを強調することによって、忌まわしい超常現象を克服しようとします。

 

 

1973年に上映された「エクソシスト」は、世界に衝撃と恐怖をあたえ、ホラー映画の新時代をつくりました。今日でも、ホラー映画ファンが一番怖い映画にえらぶ作品のひとつですが、「エクソシスト」は、ホラー映画とは何かを考えるうえでたいへん参考になります。

 

 

1971年、レバノン出身のカトリック信者ウイリアム・ピーター・ブラッティ氏が書いた原作小説は、キリスト教における、信仰の勝利をテーマとした内容なのです。巻頭に、イエズス会士の人々が、霊現象を「どう考えればいいかを教えてくれた」と謝辞を記しているほど、カトリック教会のさまざまな助力を得て完成した作品です。アメリカでベストセラーになったこの小説が、どんな内容であるかを知るには、裏表紙に書かれたディーン・クーンツ氏の紹介文が端的にあらわします。

 

 

エクソシスト」は、えもいえぬ恐ろしさに満ちた壮絶な作品であると同時に、偉大で感動的な作品だ。なぜなら、ホラーの内側に大いなる愛 ー 母と娘のあいだの愛と、少女の魂を救おうとする神父の卓越した愛 ー を描いているからだ。この作品がベストセラーになったのは、《悪魔憑き》の恐怖場面にではなく、感動を呼ぶ物語に読者が惹きつけられたからだ。

 

 

この本は最初に、イエス・キリストが悪霊に憑依された人を癒す聖書の引用、マフィアが、3日かけて敵対者を殺害した様子を笑いながら話す盗聴記録の内容、共産軍が教会に押し入り、キリスト教司祭の舌を切り、7人の少年の耳に金箸を突き刺した残虐行為、そしてダッハウアウシュビッツ、ブッヘンヴァルトというナチス強制収容所の名を引用します。これはホラーを成立させる背景が、過去に人が人に対して犯した恐ろしい行為だということを強調しています。

 

 

主人公デイミアン・カラス神父は、ワシントンにあるイエズス会系のジョージタウン大学に勤務します。彼は精神科医でもあり、大学にいる神父たちの心理カウンセラーをしています。しかしカラス神父の内面には、神に対する不信が生まれ、信仰の危機に直面していました。この苦悩する神父に、娘が悪魔に憑依された母親が助けを求めます。そして悪魔祓い師(エクソシスト)のメリン神父を呼び、二人で娘にとり憑いた悪魔と対決します。

 

 

メリン神父も、高齢のうえ重い心臓病を患っていました。まさに命をかけ悪魔に挑むのです。二人はともに、強力な悪霊と戦うことなどかなわない、致命的な弱点を抱えていたのです。悪魔はカラス神父の弱みである母親の幻を見せるなどして、信仰心を挫こうとします。しかし、メリン神父の強固な信仰の感化を受け、信仰心を取り戻してゆきます。カラス神父は極限の状況下で、「信仰の師」と出会ったのです。

 

 

メリン神父は、悪魔との対決中に発作を起こして死にますが、カラス神父は卑劣な悪霊に怒りを発し、殴りかかり、自分に乗り移れと迫り、乗り移った瞬間、窓から身を投げて死に、少女を悪魔から救います。

 

 

二人の神父は、一人は信仰、一人は肉体に重い十字架を抱えながら、少女を救うために悪魔と戦い命を捧げました。そして一人は信仰を再び獲得し、一人は神の聖業を成すなかで献身的生涯を閉じたのです。この物語はキリスト教聖職者の、愛と信仰の勝利の物語なのです。

 

 

 

●恐怖効果と宗教の価値観

 

メリン神父は悪魔の狙いについてこう語ります。「しかしわしはこうみておる。つまり、悪霊の目標は、とり憑く犠牲者にあるのでなく、われわれ ― われわれ観察者が狙いなんだと。いいかえれば、この家にいる者の全部だ。そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティーを打破することにある。いいかね、デイミアン。やつはわれわれをして、われわれ自身が究極的には堕落した者、下劣で獣的、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしておる。この現象の核心はそこにある―」、「おそらく、悪こそ、善を生み出するつぼであるからだろうな」、「そしておそらく、サタンでさえもが ― その本質に反して ― なんらかの意味で、神の意志を顕示するために働いておるともいえるのだ」。

 

 

悪魔は、ジョージタウン大学礼拝堂の聖母像をけがして冒涜し、神に挑戦を挑んでいます。悪魔の狙いは少女ではなく、家に住む者や信仰の確信を得ようとするカラス神父、人を救うため死も恐れないメリン神父など、それらの人がもつ愛情、信仰、勇気、すなわち人間の善なる心を破壊することなのです。

 

 

また、創造主である神の力は圧倒的で、勝利は定められています。霊的にみると、悪が悪を行うのは、自身が救われるためです。悪は自身の悪を解決できず、善に対して悪をなし、善が克服することによって、救われるしかないのです。エクソシスト」は、凄まじい悪の力にも打ち勝つ、神の全能性と人間の善意がもつ偉大な力が強調されているのです。

 

 

しかし、ウイリアム・フリードキン監督の映画では、前出の、メリン神父の悪魔の真の狙いに関する洞察部分は削られています。この言葉がなければ、物語の本質は変えられてしまいます。削った意図は、恐怖を増幅させるためです。宗教的意味は隠され、悪霊の目的は少女を破滅させることに集中し、見る人を少女に同一化させ、孤立感と心の弱さをとらえます。神の無力、人間の善意の弱さ、悪霊の圧倒的つよさが強調され、恐怖がながく人の心を支配します。ホラー映画のお決まりのパターンです。

 

 

実は、映画でもメリン神父の言葉は短く語られていましたが、73年版では、最後の編集で削ったのです。ラストシーンも変えられました。原版では、カラス神父はキンダーマン警部と気が合いましたが、カラス神父の親友であるダイアー神父とキンダーマン警部も気が合い、冗談を言いながら一緒に歩き出す、さわやかな場面で終わります。カラス神父の存在はダイアー神父につながり、ストーリーの恐怖を緩和し、物語を昇華させているのです。73年版ではこの場面はカットされ、ダイアー神父が、カラス神父が転落した階段を暗い表情で見つめる場面で終わります。

 

 

2000年、これら削除した場面を復活させて、ディレクターズカット版として復刻しました。これは、本来の宗教性が加味され、ブラッティー氏の原作に近づき、霊的真理を語る映画に変わったと言えます。

 

 

しかし、「エクソシスト」の映像はあまりに刺激的で、宗教的には「霊的に良くない」もので、宗教教団がお勧めできるようなものではないでしょう。宗教では、悪霊をリアルに表現することは避けるのです。ホラー映画で評価できるのは、人が罪を犯したら、真摯に懺悔し、つぐないの行いをしない限り、その罪業は消えることなく、必ず報いを受けるというメッセージを発信していることです。宗教的な「地獄の戒めの教え」と見ることもできます。人をゲームのように次々と殺す、アクション映画よりいいかも知れません。

 

 

 

増上寺とお化け屋敷のコラボ

 

日本では、「呪怨」や「リング」が怖いホラー映画の上位にありますが、恐ろしさを増幅し、持続させるため様々なテクニックが用いられます。恐怖心を呼び起こす小道具や効果音を巧みに用い、ラストシーンは解決されたと思わせ、一転して最悪の恐ろしい場面で終わります。神や仏が助けを差し伸べられず、悪霊が凄まじい力を発揮し、人の心身を破壊するというホラーの定番ストーリーです。

 

 

しかし、もし、「呪怨」の伽椰子や「リング」の貞子が、神仏の大いなる愛に触れ、恨みを忘れ、人々を助ける善霊になるというストーリーに変われば、立派な宗教映画になってしまいます。ホラーは憎しみと復讐の霊現象を強調し、宗教は愛と許しの霊現象を尊いものとします。両者は、紙一重のちがいです。

 

 

ホラーは人気があり、テレビのホラー特集は高視聴率を獲得できる番組です。特に夏には毎日のようにホラー番組があります。宗教が手ばなしに受け入れることはできないものですが、霊的なものを一切受け容れないという唯物的考えよりも宗教にちかく、救いがあるのではないでしょうか。ですから、宗教者は、ホラーのなかにある宗教性を論じることによって、ホラーファンを、清らかな霊性をもつ宗教のほうに導くことができると思います。

 

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増上寺がおこなったホラーの宗教への取り込み

 

 

2015年、芝増上寺が毎年行っているフェスティバルでは、「お化け屋敷」を設けました。それも一流の仕掛人による、本格的な怖いお化け屋敷です。お寺がどうしてお化け屋敷なのでしょうか。日本の伝統的おばけは、「悪」ではなく「悪の犠牲者」です。もともと不幸な善人で、自分を苦しめ殺害した悪人に恨みをはらしますが、神仏に挑戦したり、関係のない人に災いを及ぼしたりはしません。反キリストの西洋の悪魔とはちがいます。ですから、「おばけ」は仏教が取り込むことができるのです。

 

 

仏教が「お化け屋敷」をすれば、お寺に大勢の人が集まり、ほかの催しや展示とも接し、仏教と人々とのこころの距離を縮められます。このような企画は、仏教の寛大さと柔軟さを発信し、仏教的価値観の社会への浸透も促進します。

 

 

一方、日蓮宗の僧侶で、「怪談和尚」と言われる三木大雲師は、自身も幼いころ霊的体験をし、京都の公園で、若者に怪談話からはじめ、徐々に仏教を語り宣教の成果をあげました。三木師は「私が布教してきた若者たちが、現在お寺に集うのは、ただ霊というものに執着しているからでは決してありません。目に見えない世界から、今生きている世界を見始めたからなのです」と言います。

 

 

宗教は、人々を信仰に導き救済するため、怪談も利用していいと思います。宗教者は、あらゆる霊性表現の宗教的意味をとらえ、宗教と共存させ、より多くの人を、宗教的な善の世界に誘導すべきです。

 

 

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聖徳太子コンプレックスと仏教史の黒子・蘇我馬子

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日本人は宗教奨励を聖徳太子のような偉大な指導者の役割と誤解している

 

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-8》

 

永田正治 (Masaharu Nagata)

 

遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明は、つつしんで侍臣の怒利斯致契を遣わして朝に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです。 (百済聖明王の国書) (『全現代語訳日本書紀欽明天皇条 宇治谷孟 講談社)

 

                     * * *

 

●仏教受容をめぐる大戦争

 
朝鮮三国の例を踏まえながら、日本の仏教受容過程をかんがえます。日本の仏教伝来は、新羅より11年遅れた538年、百済聖明王が朝廷に仏像や経典を伝えたときです。欽明天皇の対応は、大連の物部尾輿らの強い反対があり、大臣の蘇我稲目に崇仏を許すという消極的措置に止まりました。

 

 

仏教信仰は、稲目の子である馬子が引きつぎ、584年から、百済より渡来した仏像を安置し、仏殿と塔を建て、三人の少女を出家させ尼僧にさせるなど、大胆に仏教導入をはじめました。翌年、疫病が大流行し、物部尾輿の子である守屋は、それを馬子の崇仏を怒る神々の祟りであると敏達天皇に訴えました。守屋は勅許を得、仏殿と仏像を焼き、塔を倒し、尼僧をムチで打つなどの強硬手段におよび、両派の対立は武力衝突が避けられないほどエスカレートしたのです。

 

 

馬子と守屋は、自派の勢力拡大に力を尽くしましたが、政治手腕に長けた馬子が諸、皇子や有力豪族を結集し優位に立ちます。587年の渋川の戦いは、初戦は軍事にすぐれた守屋が指揮する廃仏派が優勢でしたが、守屋が戦死することにより、崇仏派が勝利を得、ようやく仏教が公認されました。日本は、仏教伝来から49年もの長きにわたり、受容可否をめぐり激しい対立がつづいたのです。

 

 

戦勝後、馬子は、百済に留学僧を派遣し、百済からは仏舎利がもたらされ、僧侶が渡来し、寺工、画工などもやって来て、法興寺(飛鳥寺)を建立しました。そこに、慧慈と慧聡のふたりの渡来僧を住まわせ、この巨大寺院を、仏教宣教と国際交流の中心的役割をになう施設としました。

 

 

日本の仏教受容過程で注目されるのは、導入是非をめぐり、国家を二分する対立をまねき、それが戦争にまで拡大したという事実です。新羅も受容をめぐり葛藤がありましたが、イチャドンの殉教によって公認されました。戦争を経て公認された日本とは大きな差があります。大歓迎で応じた高句麗百済の伝来とはあまりにかけ離れたものでした。

 

 

日本は仏教が中華帝国ではなく、百済から伝来しました。百済は友好国であり、仏教に対しどのような態度をとっても、相手国の意向を気遣う必要のない、いわば「拘束力」がないものでした。また自国に深刻な脅威をあたえる敵国もなく、仏教の導入如何が国家の命運を分けることでもありませんでした。

 

 

注目すべきは、受容を主導したのが、「王権である天皇」ではなかったという事実です。高句麗百済はもちろん新羅も受容を推進したのは「王権」でした。ところが日本は、欽明天皇敏達天皇も仏教受容に対する態度を決めかね、蘇我氏という有力豪族が一貫して仏教受容を主張し、独自に導入を推進したのです。

 

 

前述しましたが、世界宗教の導入は、国家の重大事であり諸国では王権が主導しました。日本においては仏教というアジアの有力宗教、中国を中心に近隣諸国で篤く尊崇されている教えであっても、王権が受容を推進しなかったのです。しかもそれが、古代の仏教受容のみならず、近世のキリスト教導入と儒教奨励においても共通していたということは、日本の王権のあり方が、諸国と異なる性格を持つことを示すことに他なりません。

 

 

●仏教伝来と蘇我氏の国際性

 

日本書紀』には、仏教受容に対する朝廷内での反応を伝える箇所があります。百済聖明王の国書には、「遠く天竺より三韓に至るまで、人々はこの教えに従い、尊んでいます」とあり、仏教受容がアジア世界の趨勢であることを強調していました。

 

 

蘇我稲目「西方の国々は皆これを信じ、礼拝しています、日本だけがこれに背くべきではありますまい」欽明天皇に言上しました。この主張は、中華帝国との外交関係で仏教を受容した高句麗百済の立場、あるいは諸外国の動向を意識して仏教受容を推進した新羅の法興王と同じもので、アジアの大潮流に従おうとする意思を示しています。

 

 

稲目がこう考えたのは、蘇我氏が渡来系諸族と関係が深く、海外情報を豊富に得られる立場にあったからでしょう。これは、日本においては、君主である天皇が、一豪族よりも国際情勢に疎かったということ、またそうであっても、君主として国家に君臨し得たという重大な事実を示します。

 

 

それに対して物部尾輿は、「我国は帝が王としておいでになるのは百八十神を春夏秋冬お祀りなさるのが努めであり、今それを改めて蕃神を拝まれますならば、恐らく国つ神の怒りを招くでありましょう」と非難し、外国の神は拒絶するという排他性をあらわにしました。日本においては、この主張が、排仏の論理として強い説得力を持ったのです。

 

 

日本の仏教導入は、仏教を先行受容した中華帝国や周辺国からの影響がおよばず、導入反対勢力の攻撃に遭遇するという逆境のなかで行なわれました。そのため、仏教をめぐる海外情勢を感じ取れ、反対勢力に対抗できる力がある蘇我氏によって受容が進められました。すなわち、蘇我氏の役割、とくに馬子の活躍が大きなものだったのです。

 

 

長いあいだ、蘇我馬子が仏教受容に果した役割は注目されませんでした。理由は、彼が崇峻天皇を殺害した「大逆人」だったからです。日本の伝統精神からは到底許されない存在です。しかし、歴史を見るとき、好き嫌いを優先し、全体を判断してしまうことは、重要な真実を見落とすことになります。

 

 

日本の国情は、外来宗教である仏教を導入すること自体、極度の困難を伴なうものでした。仏教を導入するためには、王権である天皇を説得し、反対勢力と生死を賭した抗争に勝ち抜かなければならなかったのです。

 

 

韓国では、新羅の仏教受容においてイチャドンの殉教に注目します。馬子も、仏教受容のために命をかけ廃仏派と戦ったのです。それは仏教を公認させる決定的行動でした。馬子が日本に仏教をもたらした第一の功労者だったことは否定できない事実なのです。

 

 

以上のような過程を経て、日本は6世紀に仏教という高度な哲学をもつ宗教を受容し、多神教世界の国から、アジア諸国と世界観、価値観を共有する国家に変貌し、アジア文明の主流に合流したのです。この仏教受容とアジア文化の積極的受容は「古代入亜」と呼べる文明現象で、後の日本史に及ぼした影響は極めて大きなものがありました。遣隋使、遣唐使を派遣し、仏教を中心とする諸文化の体系を持ち帰り、日本文化は飛躍的に発展しました。仏教は今日も多くの人々が信じる宗教であり、長く日本人の心をアジアと結びつけたのです。


 
聖徳太子コンプレックス


聖徳太子は仏書を著わす一方で、推古天皇に仏典を進講しました。摂政という権力の座にありながら、宗教家がすべき役割も担ったのです。十七条の憲法を制定し、和の精神重視、仏教信仰、天皇尊重という国家の大きな枠組みを示す一方で、隋に対し「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」で始まる国書を送り、対等の立場を主張した外交は優れたものでした。画期的な内政、外交政策を推進し日本の基礎をつくった聖徳太子は、偉大な政治家であるとともに、仏教保護の聖人と称えられるにふさわしい人物でした。

 

 

聖徳太子が日本仏教発展におよぼした影響は計り知れません。馬子が仏教受容の最大の功労者であるならば、太子は仏教隆盛の最大の功労者と言え、両者のはたらきは相互に支え合うものでした。

 

 

世界宗教の受容期に、太子のように教義を深く理解する人物が執権者であったことは世界でも稀で、その上、人徳と功績により後に神格化されたような人物は例がありません。世界宗教受容史から見ても太子は異例な存在なのです。聖徳太子が発する光があまりに強いので、仏教受容も太子の功績のように捉えてしまいます。

 

 

日本には「聖徳太子コンプレックス」と言えるものが存在します。仏教受容期に高潔な人物が出現したため、それがひとつの「原型」となり、宗教に関わる権力者は、太子のようにあらねばならないという観念が形成されたのではないでしょうか。

 

 

それは世界宗教受容の現実とは隔たった考えです。キリスト教イスラム教の受容も、帝国と諸国の外交政策、あるいは国家や教団の生存戦略という要素がつよく作用し、受容した君主に、宗教を深く理解した人物は稀なのです。

 

 

あの「ダビンチコード」でも触れていますが、西洋ではコンスタンチヌス帝の改宗動機は疑いを持たれています。自身の離婚問題を契機にカトリックを拒絶しイギリス国教会を創立したヘンリー8世も利己的な人物でした。儒教を国教とした漢の武帝や明の洪武帝も恐るべき専制君主だったのです。世界宗教を受容した権力者は独裁的で計算高い人物が多く、その実態は宗教を利用したと言ったほうが真実に近いのです。しかし、諸外国では彼らが宗教受容、奨励に果した役割を高く評価しており、それは世界宗教受容史の常識になっています。

 

 

このような諸外国の例から見ると、蘇我馬子専制的な行動をもって、彼の仏教受容の功績を過小評価することは明らかに間違いです。日本には、聖徳太子のような優れた人物を尊崇し神格化する一方で、どんなに功があっても、欠点のある人物の役割には目を背けてしまう傾向があります。この「聖徳太子コンプレックス」は、織田信長キリスト教保護、徳川綱吉儒教奨励の評価問題にも影響しています。 

 

 

 

●繊細でひ弱な日本的世界観

 

諸国は、異民族による侵略や暴君の圧政に苦しみました。それがいかに嫌悪すべきものでも、何らかの意義を付与しなければ、歴史に空白が生まれ、自国史が自分達に益するものとはなりません。そのため否定的な過去も、「神の計らい」と受け止める歴史観をつくり上げました。中国はモンゴル王朝のような侵略王朝も、「天命」とし、正統王朝と認める歴史観をもちます。歴史を前進させるのは、決して良い事だけではないのです。

 

 

諸国の精神は、苦痛のなかから核になる部分が生まれ、国家の悲劇を「神の試練」、「天命」などと受け止め、絶対者を中心に置く歴史観を形成しました。今日でも、キリスト教徒やイスラム教徒は、深刻な事態に直面すると神に頼る思考が身についています。


 
日本人に「天命」という観念が希薄なのは、侵略や極端な暴政という艱難を経験せず、それを精神的に克服し得る、絶対者をいただく思想をもつ必要がなかったからです。世界でも稀な平和な土壌から、自然、人間を神格化し、繊細で優しい宗教観、世界観が生まれ、歴史を見るときもその思想が影響します。

 

 

日本的感性から見ると、聖徳太子は神になれる条件を完璧にそなえた人物です。反対に、馬子、信長、綱吉のような、専制的で自己主張が強く、「和」を優先しない非日本人的な人物は、恐れられ、嫌われ、彼らが宗教受容に重要な役割を果たしたなどと認めたくない心理を生みました。

 

 

三人の背後に、人智を越えた神の計らいを感じ取れず、どこまでも好き嫌いで歴史を判断してしまいます。このような思考は、彼らが宗教受容、奨励に果たした功績を排除し、自国史の重要ポイントを自分達に益するものにできなくさせます。

 

 

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日本人には蘇我馬子のはたらきに神の計らいを感じ取る感性が求められる

 

 

 

平和な歴史によってつくられた日本的発想は、大きなスケールで襲ってくる悲劇的事態に対処できない弱さを持ちます。東日本大震災でも、じっくり時間をかけ、根回しや段取りを経て事を運ぶ慣習が、復興を遅らせました。これらは平和を前提として成り立つ「和」の社会のやり方なのです。

 

 

突然襲った大津波の被害や原発事故は、侵略と同じなのです。このような凄まじい被害に対しては政府が強いリーダーシップを発揮し、一刻も早く、大規模復興計画を立て断行しなければならないのです。しかし、反対を恐れ、細かいことと調整を大事にする私達には、そのような手荒な方法は馴染みません。復興の遅延という事態も、平安のなかにながく浸かった感性から生じた、島嶼独立国家の副産物と言えます。

 

 

 

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韓国と日本・仏教伝来の根本的ちがい

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韓国の仏教受容は中華帝国の影響のもとに成された

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-7》 

 

永田正治 (Masaharu Nagata )
             

 

●仏教、東アジアへ

 

仏教は紀元前3世紀の中ごろ、マウリヤ朝アショカ王に保護されインド全域に広がり、海を渡りセイロン島まで伝わりました。マウリヤ朝滅亡後には迫害期や停滞期もありましたが、2世紀にクシャン朝のカニシカ王に保護され、ガンダーラ美術を生みだすような全盛期を迎えました。仏教はインドのふたつの帝国に受容され、帝国領と周辺に伝わったのです。

 

 

西域(中央アジア)から中国への伝播は、数百年をかけインドや西域の僧、仏教を学び経典をもち帰るために西方におもむいた中国人求法僧たちによって成されました。ながい時間を要したのは、現世超越的なインド的思想世界と、現実的な中国的思想世界の乖離という問題もありますが、西域と中国を隔てる厳しい自然条件により、両地域の交流は困難を極め、西域の仏教受容国が、中国への仏教伝播に影響力を行使できなかったことが主な理由です。

 

 

4世紀になり、仏教は五胡十六国時代の中国で隆盛し、中華帝国の直、間接的影響により周辺に伝播し、4世紀後半には朝鮮半島に伝わりました。朝鮮三国のうち、中華帝国の強い影響下にあった、高句麗百済の仏教受容は順調に行われましたが、中華帝国の影響外にあった新羅に至り、強い反対に遭遇しました。中華帝国から遠く離れ、政治的影響力が全く及ばない日本では、仏教受容をめぐり大戦争が勃発したのです。

 

 

アジアにおける仏教受容も、帝国の役割が重要で、朝鮮半島と日本の仏教受容のあり方を見るとそれが明確になります。平和のうちに進行した仏教東漸が、新羅、日本に至り、大きく様変わりしたのです。この受容のあり方のちがいは、国家における世界宗教受容が何によって決定的影響を受けるかを教えます。

 

 

先にあげた、「世界宗教はそれを受容した帝国の影響力が及ぶところでは順調に伝播した」、「その世界宗教を受容した帝国の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という仮説は、東アジア地域の仏教受容にも適用できるのです。

 

 

 

●何が朝鮮三国に仏教を受容させたのか?

 

 

仏教公認 ‐ 歓迎と殉教

 

古代朝鮮三国における仏教受容の過程を見てみましょう。中華帝国と国境を接する高句麗は、372年に北朝前秦から、僧の道順が派遣され仏教が伝来しました。小獣林王はこれに謝意を示す使節をおくり、道順に子弟の教育をさせます。まさに国を挙げて仏教を歓迎したのです。この王は、仏教だけでなく律令頒布、大学設立など、中国の諸制度を取り入れ、王権を強化し、広開土王時代の発展の礎を築きました。

 

 

中華帝国海上交流を行なっていた百済は、384年、南朝東晋からインド僧マラナンダがやって来て仏教を伝えました。枕流王はすぐにマラナンダに帰依し、なんと、王宮に、マラナンダを住まわせるという格別の待遇で迎え、寺院を建立し、10人の百済人を出家させました。百済は、高句麗以上の敬意をはらい仏教を受け入れたのです。

 

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新羅のイチャドン殉教の場面

 

それに対し、新羅の仏教公認は、高句麗百済と国境を接するにもかかわらず、約150年も遅れました。527年、法興王は仏教受容の意向を臣下に諮りましたが、仏教徒であるイチャドン(異次頓)のみが賛成し、他の全員が反対したのです。『三国史記』では、イチャドンがみずから望み殉教したとき、その首を切った瞬間、胴体から白い液体がほとばしり出るという奇跡が起こり、人々は驚愕し、反対を止め、法興王はようやく仏教を公認できたと伝えます。新羅の仏教受容は、大歓迎で受け入れた他の二国とは異なり、殉教という犠牲がともなったのです。

 

 

●仏教受容の国際関係

 

朝鮮三国の仏教受容の背景を考えてみましょう。高句麗の仏教受容は、中華帝国との正式外交として成されました。その前年、高句麗は、故国原王が百済軍との激突で戦死するという悲劇に見舞われました。強敵百済の脅威に直面する状況では、宗主国前秦との関係は何にも優先する重大事で、小獣林王は仏教を拒絶せず、積極的に受容する選択をしたのです。高句麗の仏教受容は中華帝国と友好関係を強化し、律令制導入と大学設立を行ない、国力を強化することによって、百済との競争に優位に立とうとする、内外政策と結び付いて成されたのです。

 

 

百済の仏教伝来は、中華帝国との正式外交ではありませんでしたが、マラナンダ渡来の2ヶ月前、東晋朝貢しており、その際に僧侶派遣を依頼した可能性があります。中華帝国との外交関係が、仏教伝来の背景にあったことは間違いありません。

 

 

百済高句麗との対決上、東晋との関係は損なえません。すでに高句麗は仏教を導入し、国家制度を改革し、国力を充実させています。宗主国である東晋と、競争国高句麗で仏教が受け入れられ篤く信仰されている状況で、マラナンダが東晋から渡来して来たのです。この僧侶と仏教をどう処遇するかは、国家の命運を左右する問題であり、百済は積極的に仏教を受容する決断をしたのです。マラナンダを王宮に住まわせるという最大級の処遇は、明らかに、高句麗の仏教受容を強く意識した行動です。

 

 

当時の仏教とは、中華文明を背景とし、学問、芸術、建築などの諸文化をともなう体系で、仏教受容は中国との思想的、政治的なつながりを強めるとともに、自国の文化水準を高め、国力を増強させます。高句麗百済の仏教受容は、中華帝国の政治力と文明力が背景となるものだったのです。

 

 

一方、新羅の仏教導入は、中華帝国とは無関係で、法興王の発意によるものでした。新羅高句麗百済の二国にさえぎられ、中華帝国との交流ができなかったのです。弱小国であった頃に、高句麗使節に従って前秦朝貢したことがありますが、顔見せ程度のものに過ぎませんでした。

 

 

中華帝国との交流は、それに携わった人々にアジア世界に対する豊富な知識を与えます。中国と国交のあった高句麗百済の支配勢力は、仏教がアジアで広く信奉され、受容は避けがたい潮流であることを認識できました。中国との交流がほとんどなかった新羅支配層は、大陸での仏教をめぐる情勢を感じ取ることはできなかったのです。

 

 

法興王が仏教導入を推進したのは、君主として、諸外国の動向を注視していたからです。王は仏教受容に先立つ七年前、律令を頒布するほど中国を意識し、その制度を取り入れることに積極的でした。高句麗百済が仏教受容を契機に、中華帝国と関係を深め、文化と国力を発展させている状況を知り、新羅も仏教導入が必要だと判断したのです。新羅の仏教受容は、中華帝国との関係によって成されたものではありませんが、その間接的影響と言えるでしょう。

 

 

朝鮮三国の仏教受容は、中華帝国を中心とする国際関係と諸国の対立関係、そして内政改革が絡み合う、国家の生存戦略の一環であったのです。それはヨーロッパにおけるキリスト教西アジアイスラム教の受容とも類似し、世界三大宗教の受容に、帝国の影響と国家の生存戦略という要素が同じように深く関っていたことが分かります。

 

 

次に、中華帝国から独立していた日本の、波乱にとんだ仏教受容について考えてみたいと思います。

 

 

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日本の宿命・「脱亜」か「入亜」か?

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戦国時代は最初の「脱亜の時代」であった


            

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-6》

 

 


永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 

 

●脱亜という文明の挑戦 -戦国脱亜・明治脱亜-
 
日本の歴史は、西洋に接近した「脱亜の時代」と、アジアに接近した「入亜の時代」がありました。まず、脱亜の問題を、福沢諭吉の「脱亜論」から考えてみましょう。「脱亜論」は明治18年(1885)、「時事新報」に無署名の社説として発表され、48年後の1933年に、『続福沢諭吉全集2巻』に収録され、ようやく福沢の文章と知られるようになりました。

 

 

平山洋氏の研究(『福沢諭吉の真実』2004)によると、「脱亜論」が取上げられ、人々が関心を向けるようになったのは、なんと、戦後、それも1960年代の半ばからと指摘しました。一般に、「脱亜論」が「脱亜入欧」として日本近代化の論理になったような印象がありますが、実際は、この文章も、脱亜という言葉も、長く注目されなかったのです。

 

 

「脱亜論」を待つまでもなく、近代日本のあり方が「脱亜」そのものでした。福沢の「脱亜論」の重要な意義は、「脱亜」あるいは、「脱亜入欧」という優れた造語を世に送り出し、著者の意図を越え、この言葉が、近・現代日本の、アジア、世界との関り方について様々な問題提起をしたことです。

 


 
基本認識として、思想的に、また、国家の戦略として「脱亜」を選択することは可能です。しかし、地理的条件、人種的条件、また文明の根幹を変え、「脱亜」することは不可能なのです。

 

 

福沢自身、アジアに反発していても、徳川時代という「入亜の時代」に育った人物で、日本文明がアジア帰属することは自明のことでした。彼はその後、脱亜という言葉を使っていません。本気で「脱亜」を唱えるならこの言葉を頻繁に用いたはずです。「脱亜」という言葉は、彼が支援し朝鮮で進んでいた革新運動が、清軍と朝鮮の保守派によって無惨に阻止された甲申事件に怒った福沢が、無署名の社説中に使った、多分に感情的表現です。彼の知性ではなく感情が生んだ言葉です。

 

 

脱亜入欧という言葉が注目されたのは、戦後の、「高度成長期」でした。当時は、日本が目覚しく発展する一方で、冷戦下のアジアは危険で遅れており、日本人は欧米に目を向けアジアと距離を置く、まさに「脱亜の時代」でした。そのような中で、日本の近代化のあり方を論じるテーマとして、70年前の福沢の文章にあらわれる「脱亜」が取上げられたのです。

 

 

「脱亜」は、戦国時代末期、すでに経験した歴史現象で、脱亜問題を知るには歴史を紐解かなければなりません。本書の言う「脱亜」とは、西洋文明との遭遇による衝撃により、アジアから距離を置くことになる、日本人のアジア認識と国家戦略の転換です。それを可能にさせたのは、日本が自国の意思でアジアとの距離を設定できた国だからです。韓国のように、中華帝国の影響下に存在し、中華帝国との文明的、政治的繋がりが強固な国なら「脱亜」は不可能でした。

 

 

日本には、近世のはじめにヨーロッパの影響を受けた「戦国脱亜」の時代があり、近代に至り、欧米列強の影響を受けた、「明治脱亜」の時代がありました。日本は、戦国期と明治期に「脱亜」という文明の挑戦をしたのです。

 

 

●入亜という文明の深化 -古代入亜・元禄入亜- 

 

一方、「入亜」は、脱亜の反対概念ですが、ほとんど議論の対象になりませんでした。しかし、20世紀末から、アジアの伝統的大国である中国とインドが発展し、世界におけるアジアの比重が大きくなりました。そのような中で、「入亜」という見解があらわれ始めました。寺島実郎氏の『21世紀の潮流を見誤るな・〈親米入亜〉のすすめ』(2001)、また、陸培春氏の『〈脱米入亜〉のすすめ』(1994)などが出版されました。

 

 

この「島嶼独立国家・日本」シリーズでは、日本史の大きな歴史現象として「入亜」をとらえます。日本における「入亜」は、精神の改革、発展でした。それはアジア発祥の思想、宗教の伝来、受容というかたちであらわれました。古代における仏教受容と、江戸・元禄時代儒教の本格的奨励を、精神的「入亜」の時代と捉えることができます。それにより日本文明は、より高度なもの、より深化したものになりました。

 

 

日本人の思想、精神形成において、仏教、儒教の果たした大きな役割は、言及するまでもありません。私たちは常識として、仏教は百済聖明王から伝えられ、受容における聖徳太子の役割を重視します。儒教徳川家康儒教の教えを重んじ、幕府の官学としたと理解します。

 


しかし、重要な人物を忘れているのです。それは仏教の受容における蘇我馬子と、儒教の奨励における徳川綱吉です。本シリーズでは、この日本史の異端者といえる二人に焦点をあてます。そうすることによって、今まで、日本人が見なかった、見落としていた、日本史の真実が見えてきます。そして、これらの人物について考えることは、現代に生きる私たちが、反グローバリズムに立つ歴史観を形成するカギになります。

 

 

 

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イギリス国教会はエゴイストで冷酷なヘンリー8世によって創始された

 

 

 蘇我馬子織田信長徳川綱吉のラインの意味

 

今日までの歴史観は、蘇我馬子でなく聖徳太子織田信長でなく徳川家康徳川綱吉でなく徳川吉宗を尊重します。聖徳太子徳川家康徳川吉宗、このラインは、理想的で、日本人に尊敬と安心と親しみを与えます。いわば、私たちが見たい歴史の流れです。

 

 

しかし、蘇我馬子織田信長徳川綱吉のラインは、現実的で、私たちに、軽蔑と恐怖と束縛を感じさせます。いわば、私たちが見たくない歴史の流れです。しかし、仏教受容のキーマンは馬子、キリスト教を最も強力に保護したのは信長、儒教を最も強力に奨励したのは綱吉でした。この三人の役割をしっかり見なければ日本人の精神史の真実は語れません。

 

 

インドで仏教を受容したのは大量虐殺者アショカ王イギリス国教会を開いたのはエゴイストのヘンリー8世、中国で儒教を国教にしたのは恐怖の専制皇帝の武帝でした。宗教の受容はきれいごとではありませんでした。それが現実の宗教史です。なんのことはない、馬子・信長・綱吉は、世界においてはスタンダードな権力者なのです。反対に、聖徳太子徳川家康徳川吉宗のラインは、聖人と名君で、まさに、世界には稀な、日本的な歴史主人公たちです。

 

 

日本人が見たい歴史は、理想的で、尊敬でき、安心で、親しみを感じる歴史です。しかしこれは世界の歴史とかけ離れています。そこから、非武装中立論や、共産独裁国家の平和攻勢に騙されたり、外国の主張を安易に受け入れたりする甘さが表れるのです。世界史は、現実的で、利己的で、不安定で、拘束的なものでした。

 

 

馬子・信長・綱吉という歴史の流れを提起する理由は、日本史のなかに、世界のスタンダードな歴史があることを知って、日本人が「強靭な歴史観を持ってほしいからです。しかし、一方、彼らは、外国の圧力や影響ではなく、自らの自発的意思で宗教を受容、保護したのです。まさに、島嶼独立国家の宗教受容の特殊性が如実にあらわれる形をとりました。

 

 

これを正しく捉えることで、グローバリズムと戦う強力な歴史観を形成できます。すなわち、聖徳太子徳川家康徳川吉宗の流れで、よき日本史を感じ取り親しみを持ち、そして、蘇我馬子織田信長徳川綱吉の流れから、厳しい日本史を感じ取り、緊張感を持つことができるのです。次回から、新しい観点から見た、日本の宗教受容史を考えてゆきたいと思います。

 

 

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5.25トランプ大統領来日歓迎《反グローバリズム・奇跡の指導者》

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トランプ大統領は「神の摂理」・馬淵睦夫氏

 

 

永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 

 

25日に来日するトランプ大統領を心から歓迎いたします。この第45代アメリカ大統領の登場は奇跡というしかありません。世界でいったい何人の人が、トランプ候補当選を予想したでしょうか。メディアは圧倒的にヒラリー候補当選を予測しました。新聞社の出口調査もヒラリー当選を示していましたが、見事に外れました。それは、メディアがあまりにもトランプ候補を批判するので、かなりの数の有権者が、周囲を気にし、ヒラリーに入れたと答えながらも実際はトランプに票を投じていました。これも異例の事態で、多くのアメリカ人がメディアの扇動に乗らず、本音でトランプ候補を支持したのです。

 

 

しかし、トランプ候補勝利の条件は備えられていました。高岡望氏のアメリカの大問題-百年に一度の転換点に立つ大国-』は、現在、アメリカは三つの大問題に直面し、百年に一度の転換期にあるとしました。そして、第一に掲げた大問題が、格差移民の問題です。アメリカ国民を分断している極端な格差、そして移民問題、これこそグローバリズムの時代が生んだ惨状なのですが、多くのアメリカ人はグローバリズムが原因であると気づいています。トランプ候補はそれを徹底的に批判しました。

 

 

反対に、ヒラリーは批判できません。理由は簡単です。そもそも、彼女自身がグローバリストであり、それを推進してきたグループの一員だからです。高岡氏の本は投票日より4か月前の2016年6月に出版されましたが、トランプ候補が当選することによって、高岡氏の歴史認識が正しかったことが証明されました。すなわち、アメリカが抱える困難な問題を解決するため、百年に一度の革命を成すためにトランプ大統領は登場したのです。

 

 

トランプ大統領登場の影響は、アメリカだけでなく、世界に波及しています。日本を憂う保守派の人々は、ながく絶望的な状況の中で、日本の再生を叫んできました。日本を亡国に導くグローバリズムの問題を指摘しても、耳を貸す人々は少なく、反グローバリズムなど少数派の戯言扱いされました。しかし、トランプ大統領の登場によって、状況は一変しました。アメリカからの大きな僥倖で、日本の未来も明るい光が差し始めたのです。

 

 

馬渕睦夫氏はそれを神の摂理と言い、加瀬英明氏は「神からの贈物」と言いました。保守の有力なオピニオンリーダーがこんな賛辞を贈るほど、トランプ大統領の登場は日本にとって画期的な出来事だったのです。昨年の10月には、ブラジルで反グローバリズムのボルソナロ政権が誕生しました。つい今月の19日には、オーストラリア総選挙で、トランプ大統領反グローバリズム思想と福音主義の信仰を同じくする与党のスコット・モリソン首相が、敗北必至が予想される中、トランプ勝利のような、奇跡的勝利をおさめました。反グローバリズムの潮流は燎原の火のごとく世界に波及しています。

 

 

アジアに目を向けましょう。オバマ前大統領は、アメリカ史上、かつてない優柔不断で無責任な外交を繰り広げ、中国は周辺に拡大の歩を進め、中東は大混乱に陥りました。アメリカは、「戦わない軍事大国 (日高義樹.2016) 」と見られ、強力な軍事力を持っていてもそれが侵略の抑止力になりませんでした。

 

 

しかしトランプ大統領は、中国や北朝鮮、イランに対し、アメリカや同盟国に対する挑発に対し断固たる態度を示すことによって、これらの国の策動を阻止しました。特に、昨年の10月4日、ペンス副大統領が中国に対し、宣戦布告のような強烈な警告を与えました。まさに、チャーチルの「鉄のカーテン演説」に譬えられるような歴史的スピーチです。世界の反中国・自由運動の人々は歓喜しました。これには中国も震え上がったことでしょう。今や、アメリカにおいては、民主党も強硬な反中国の立場をとるようになりました。 

 

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日本はトランプ大統領と共に反グローバリズム革命を成すべきです


ところが、日本はどうでしょうか。安倍首相が中国の拡張政策に対抗してきましたが、残念なことに、自民党のなかにも、親中派といわれる人物がいます。トランプ大統領は、ますます、中国、さらには、北朝鮮に追従している韓国に対し明確な牽制サインを示しています。トランプ大統領来日を契機に、日本の政界は世界の新潮流を正しく受け止め、覚醒しなければなりません。

 

 

高岡氏が言われるように、トランプ大統領アメリカにおいて百年に一度の革命を実行する大統領です。革命の抵抗勢力はグローバリストです。トランプ革命の進展とともに、グローバリストは人々から見放され、分裂し、勢力を弱めるでしょう。この島嶼独立国家・日本-グローバリズムと戦う日本文明論-」シリーズでは、トランプ革命の要諦は、見えざるグローバリズム帝国を崩壊させることだと定義しました。ながく、人類史は帝国が君臨してきました。第二次世界大戦後、諸国は独立し、帝国の時代は終焉したかのように思われましたが、グローバリスト帝国という見えざる帝国が世界を支配するようになりました。

 

 

トランプ大統領は、このマネーの力と巧みな陰謀で世界を支配するグローバル帝国を打ち倒す指導者です。また、中国は、グローバリストによって育てられた傀儡の帝国です。日本はこの中国共産帝国の脅威に直面しています。日本はトランプ大統領と堅く手を握り、中国の侵略野望を阻止し、さらに進み、世界をグローバリストのくびきから解放する歴史的使命を果たさなければなりません。

 

 

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ローマ帝国の大迫害とキリシタン大殉教の類似要因

     

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歴史は、後ろ盾のない宗教は迫害された事実を伝える

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論- 5》



永田正治 (Masaharu Nagata )

 


●はじめに

 

前回、世界の宗教受容は、帝国の力によって達成された場合が多かったと論じました。島嶼独立国家・日本は、帝国の力が及ばない国でした。しかし、仏教、儒教キリスト教を受容しました。すなわち、日本は、宗教を、帝国の力でなく、日本人の力によって受容したのです。そこには、高度な世界宗教の価値を認められる思想性、精神性と、既存宗教の激しい反対を押し切って導入した努力と苦難がありました。日本の世界宗教受容は、日本人の主体的意思と行動によるものでした。しかし、反面、諸外国の歴史と比べ、宗教の果たした役割は大きいとはいえません。むしろ、小さかったといえるでしょう。今日に至っては無宗教者が多数を占めます。日本は、自ら宗教を導入しましたが、宗教の存在は弱いというパラドックスがあります。これは大きな謎です。その謎の解明が今回のテーマです。

 


●「ローマ以来の迫害」の原因

 国家にとって世界宗教を受容する意義は重大です。どの世界宗教を、いつ、だれが主導し、どのように導入したかは、その国が置かれた地政学的条件と国家の権力構造に左右され、受容後は国家に大変革をもたらしました。日本は世界宗教受容のあり方が諸外国と異なっていたのです。

 

 

日本は、世界宗教の発祥地や世界宗教を受容した帝国から、海洋を介し遠く離れ、しかも帝国の政治的影響力が及ばないという地政学的条件を具えていました。そのため、帝国により受容を強要され、或いは帝国の意向を配慮するなど、帝国の影響力が作用して世界宗教を受容することはなかったのです。また、王権強化や敵国に優位に立つために世界宗教を導入するという動機もなく、王権が受容を推進しなかったため、伝来した世界宗教は既存の政治、宗教勢力の反対に直面したのです。すなわち日本は「帝国-王権-国民」という世界宗教受容の流れが成立しないのです。

 

 

6世紀、仏教百済から伝来しました。当時の仏教は中華帝国と朝鮮三国で篤く信仰され、インド、西域でも多くの人が帰依する宗教でしたが、日本では強い反発に遭遇し、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立し、朝廷を二分する戦争を引き起こしました。仏教隆盛というアジア世界の大趨勢といえども日本に決定的な影響を与えなかったのです。

 

 

戦国時代にキリスト教が伝わりましたが、「ローマ以来の迫害」と言われるほどの徹底したキリシタン弾圧が行なわれました。このような迫害が起こり得た理由は、ローマと日本のキリスト教をめぐる状況が似ていたからです。ローマの迫害は、多神教を信じるローマ帝国内に、一神教キリスト教信者が増えたことによって引き起こされました。キリスト教は帝国内に広がりましたが、外部の支援はありませんでした。たとえ周辺にキリスト教国家があったとしても、強大なローマ帝国の国策を変更させる力はないのです。

 

 

日本での迫害は、ヨーロッパ・キリスト教国家の影響力が及ばない国で信者が増え、それを根絶やしにするためになされたものです。遠く離れたスペイン帝国キリシタンの後ろ盾になることはできず、日本に影響力を行使する力はなかったのです。反対に、明治になり日本に西洋帝国主義列強の影響力が及ぶようになると、その圧力によりキリスト教は公認されることになります。

 

 

儒教は、6世紀に百済から伝来し学問として学ばれました。孔孟の教えは歴代中華王朝の国教であり、14世紀末には朝鮮王朝も統治理念としました。東アジア諸国の支配的宗教であっても、日本で統治理念になるには韓国よりも約300年おくれ17世紀末の徳川綱吉の時代まで待たねばなりませんでした。このように日本では世界宗教の伝播、発展は困難に直面したのです。

 

 

諸国における世界宗教の受容は帝国の影響力により、水が高い所から低い所に流れるように順調に、あるいは障害を容易に克服し達成されました。それと比較すると、日本で3つの世界宗教がそろって困難に遭遇したのは際立って異例なことです。

 

 

それは日本伝来時の世界宗教をめぐる状況が、世界宗教受容史の、帝国に受容される前の段階、すなわち帝国の保護を得られず、宗教者が逆境のなかで宣教する時代に一致していたからです。仏教はアショカ王に受容される前の段階、キリスト教はコンスタンチヌス帝に受容される前の迫害時代、儒教武帝によって国教とされる以前の段階に相当しました。すなわち日本は、世界宗教は受容した帝国の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という条件をもつ国家に明確に当てはまったのです。

 

 

外来宗教に拒否反応を示すのは異常なこととは言えません。人々が古い考えにとらわれ、外来の価値観をすんなり受け入れられないのは古今東西を通じて共通することです。諸国で世界宗教の受容が順調に成し遂げられたのは、ほとんどの場合、直、間接的な帝国の影響を受ける国家の君主が、帝国が信奉する世界宗教を受容すれば多大の利益があり、反対に受容しなければ国に害が及ぶと考えたからです。世界宗教の受容は、国家の生存問題と関係し、王権が強力に推進し、国内の反対は力で抑えられたのです。

 

 

日本で世界宗教への反発が強かったのは、外来宗教や思想に対する固有の排他的土壌が存在したからではありません。国家の置かれた特殊条件により、王権が国家戦略上、あるいは王権強化のため帝国の宗教を受容する必要がなく、庇護しなかったため、既存勢力の反対に直面したからです。国家意識が強かったためではなく、むしろ希薄だったからとも言えます。

 

 

多くの国において世界宗教の受容は、世界宗教を信奉する帝国との国際問題という性格をもちましたが、日本においては世界宗教の受容推進者と反対勢力の葛藤、抗争という国内問題として推移したのです。

 

 

 

●日本における世界宗教のクライマックスは受容期

 

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キリスト教帝国の後ろ盾がないキリシタンは大殉教の道をたどった

 

 

世界宗教の信仰の力が問われ発揮されたのは二つの時代があったと思います。まずは、世界宗教が国家によって受容されるまで、もう一つは世界宗教を受容した国家が試練に直面した時です。日本と諸外国では信仰の高揚期が異なったのです。

 

 

諸国での世界宗教受容は王権が主導し順調に推進されましたが、それは王権の事業であり、宗教にとっては受動的なものでした。これらの国で宗教的情熱が高揚したのは国家、民族の「試練期」でした。外国に侵略された時、あるいは戦争をしている時など、国民が極度の苦難を受ける時に、人々は世界宗教に頼り、愛国心と信仰心を一つのものに固く結びつけたのです。

 

 

例えば、ポルトガルゲルマン民族である西ゴート族が侵入しキリスト教を国教としました。8世紀からイスラム勢力に400年以上も支配され、キリスト教徒が国土回復戦争を続けポルトガルを建国します。その後は順調に発展し、大航海時代には世界帝国になりますが、1578年にセバスティアン王がアフリカ遠征に失敗し、2年後、スペインに併合されてしまいます。

 

 

ポルトガルキリスト教を戴きイスラム教と戦い建国し、後に世界にキリスト教を伝える帝国になりましたが、スペインに支配され屈辱を味わいました。この歴史の変遷の中で、国民はキリスト教への信仰と愛国心を高揚させ、国家の独立と発展のために努力と忍耐を重ねました。いかに国家の栄光と試練がキリスト教と強く結びついているでしょうか。まさにこれによって、キリスト教ポルトガルの国教の座を不動のものにしたのです。実に、国教とは国民がつくるものなのです。

 

 

これはポルトガルに限ったことではありません。ヨーロッパにおいては、全ての国が異民族支配や圧迫を受けました。そのような艱難の時代に国民の愛国心と信仰心は高まったのです。東欧社会主義政権下で弾圧されたキリスト教が冷戦後に力強く復興している姿を見てもそれが判ります。今日の民族、宗教紛争の構図も、困難な立場にある民族が、民族意識と信仰心を高揚させ、強力な国家に対抗するというものです。

 

 

反対に日本では、世界宗教において強い信仰心が必要とされた時代は「受容期」だったのです。世界宗教は受容期に既存政治勢力や宗教勢力の反対、迫害を克服しなければなりませんでした。仏教やキリスト教儒教の受容、奨励期は、推進した権力者(中心人物)信徒達に、強い信念と信仰の高揚、また行動が要求されたのです。

 

 

しかし、キリスト教をのぞき、一旦、世界宗教が受容されれば国家の保護を受け発展しました。また日本は外国の侵略、支配という国難も経ず、明治まで国民の愛国心と信仰心が強く結びつくような外患はなかったのです。元寇の時に武士は抗戦し仏教界は敵国調伏の祈祷をなし、日蓮のような国家を強く意識する宗教家も登場しましたが、危機は早期に免れ、諸外国の苦難とは比べようもありません。日本人の宗教心は諸外国と比べ弱いと言われますが、その遠因は宗教によって国家存亡の危機を克服した経験を持たず、民族や集団における宗教の究極的な重要性を感じないからではないでしょうか。

 

 

ともあれ日本は、諸外国で世界宗教受容を推進させた、帝国の影響と敵国との生存競争という状況がなかったにもかかわらず、仏教、キリスト教儒教という世界的普遍宗教を受容しました。そこには外のメッセージを敏感に受け止め、核心部分を導入し、自分のものとして結実させ得た何かがあり、またそうする努力が求められたのです。その主体的行動がなければ日本は世界宗教を受容できませんでした。本書では、伝来した世界宗教が受容期に困難に直面した事情と、受容を推進した人物である、仏教の蘇我馬子キリスト教織田信長儒教徳川綱吉という、異端的権力者の試みに光を当てました。それはまた、脱亜、入亜という巨大な文明現象を引き起こした原動力を知ることにも繋がるのです。

 

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世界宗教史のパラドックス -帝国が宗教を伝播した-

      

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コンスタンチヌス帝の改宗は「ヨーロッパの改宗」といわれる

 《島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-4》 

 

永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 



●はじめに


本論では、帝国=悪、とは捉えません。帝国こそ文明の守護者であり、帝国がなければ、高度な広域文明は形成されませんでした。本来の帝国の使命は、その強大な力で、領土の治安を維持し、安全な交易を保証して経済を発展させ、国民の生活を安定させることです。もうひとつ重要な使命があります。それは、聖人の教えを広げ、人々が正しい人生をおくることによって、平和で幸福な社会をつくることです。宗教の保護、奨励も帝国の役割なのです。しかし、多くの帝国は、支配者みずから、聖人の教えに背き、腐敗し、国民に暴虐をふるい、悪なる帝国に変質してしまいました。そのため、王朝は代わったのです。現代の、グローバリスト帝国も、暴利を貪らず、人類の幸福に寄与するならば、問題はありません。今日まで、帝国の政治、経済はすでに研究されました。本論では、人類の精神史、すなわち、帝国が世界宗教を拡大、奨励した歴史に焦点をあてます。それにより、世界宗教発展の真実、そして、帝国から独立していた島嶼独立国家・日本の宗教受容の特殊性を知ることができます。

                       * * *

全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
           イエス・キリスト大宣教命令. 『聖書』


                 

 ●帝国は宗教を伝播する

 

エス、釈迦、孔子マホメットなど、世界宗教(universal religion)の創始者が人類史に及ぼした影響は絶大で、いかなる世俗の覇者も遠くおよびません。その崇高な精神と普遍思想は、おおくの国々に伝播し、世界史の発展を牽引しました。しかし、現実における世界宗教の伝播は、「帝国」の役割に注目せざるを得ません。 

 

今日のように、信教の自由が認められる以前、世界宗教の伝播は大きく見てふたつの段階があったと言えます。第一段階は、教祖が布教し、そして、教祖の死後、信徒たちにより宣教が進展し、社会的基盤をつくり、帝国によって宗教が公認されるまで。第二段階は、その宗教が、帝国の国教となった後の段階です。 

 

世界宗教は、帝国に公認されるまでは、社会の少数者、弱者として宣教をすすめる苦難の時代を経、帝国の国教となった後は、一変して、社会の多数者、強者に転換しました。優れた普遍思想をもつ世界宗教は、帝国統合の理念、国民の信仰となり、帝国自体が、宗教の教えを受け入れ、普遍宗教的な国家に姿を変えたのです。教えの内外への伝播は、帝国の文明力と政治力を背景に推進されました。世界宗教の歴史は、帝国の役割なしに語ることはできません。そしてほとんどの場合、次の仮説が適用できます。 

 

1.世界宗教はそれを受容した帝国(強国)の影響力が及ぶところでは順調に伝播した。

 

2.反対に、その世界宗教を受容した帝国(強国)の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った。 

 

歴史的に、多くの国は自国が帝国であったか、あるいは帝国の影響下にありました。諸国における世界宗教受容のあり方は、ほとんど前者の仮説を適用できます。しかし、帝国の支配と圧力を受けなかった、独立国家日本は、後者に当てはまり、日本に伝来した世界宗教は困難に遭遇したのです。古代における仏教伝来は戦争を引き起こし、近世のキリスト教は大迫害を受け、儒教は国家統治理念になるまで長い時間を要しました。諸国の世界宗教受容の歴史と日本のそれを比較すると、日本の特殊性が明らかになるとともに、国家の世界宗教受容において、何が決定的影響力を持ったのかということを知ることができます。 

 

以上のような世界宗教受容に関する理解は本論の骨格をなすもので、ここではまず、ヨーロッパにおけるキリスト教の歴史を中心にこの問題を考えたいと思います。 

 

キリスト教は、教祖イエスが33歳で十字架にかけられ生涯を終え、その教えは弟子達に引き継がれました。約300年間、ローマ帝国のきびしい禁令下で信者を増やし、313年にコンスタンチヌス帝によって、ようやく公認されました。当時、キリスト教信者は全ローマ帝国住民の約10分の1を占めていたと言われます。 

 

この公認までの期間こそ、キリスト教にとって長く困難な時代でした。クリスチャンは執拗に迫害され、その凄まじさは総延長560キロにも及ぶローマのカタコンベ遺跡が雄弁に物語りますローマ帝国下での迫害は、先に挙げた「世界宗教を受容した帝国の影響が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という状況を示すと言えます。 

 

しかし、キリスト教ローマ帝国に受容され劇的な変化を迎えます。392年、テオドシウス帝が「国教」とした後は、ローマ帝国の支配的宗教となり、反対に、他の宗教は禁止されました。クリスチャンは弱者として迫害される時代を終え、ローマ社会の強者に変貌したのです。キリスト教と帝国政府は強固に結び付き、奨励、宣教は国家の政策となり、その教えは広大な帝国領と周辺に伝播して行きました。

 

 

カトリックゲルマン人の帝国

 

476年の西ローマ帝国の滅亡により、ローマ・カトリック教会は頼みの後ろ盾を失い、ヨーロッパの新しい主人であるゲルマン民族の中に庇護者を求めました。当時、ゲルマン諸族は生き残りをかけた激しい闘争を繰り広げており、ヨーロッパでのカトリック伝播は、諸国が弱肉強食の生存競争を展開するなかで推進されたのです。 

 

496年、フランク王国のクローヴィス王は3000人の戦士とともに、アリウス派からカトリックに改宗しました。クローヴィスは、西ゴート王国などアリウス派を信じる敵国を「異端討伐」という大義名分のもとに征服しフランク王国の覇権を拡大しましたが、それはまた、カトリック圏の拡張をも意味したのです。 

 

クローヴィスの改宗は、ローマ文明を継承し、高い権威をもつカトリック教会と連合することで、王権と国家の威信を高めるとともに、戦争の名分を得て隣国を倒すための生存戦略と言えました。カトリック教会にとっても、フランク王国との連帯は、教会の安全と布教のための生存戦略だったのです。 

 

732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルは、ヨーロッパに進撃してきたイスラム軍をツール・ポワチエ間の戦いで破り、キリスト教世界の危機を救いました。その子ピピンは、ローマ教皇と結びつきカロリング朝を建て、教皇に広大な領地を寄進したのです。 

 

ピピンの子カール大帝は、さらに領土を拡大し、版図は西ローマ帝国に匹敵するものとなりました。カールは800年に教皇レオ三世により、ローマ皇帝に戴冠され、ここに西ローマ帝国ゲルマン人の手によって再建されたのです。この戴冠の時から「ヨーロッパ」が始まったと言われます。 

 

カールはキリスト教を背景とするカロリングルネッサンスと呼ばれる文化事業を推進し、この文化の発展も、キリスト教伝播を後押ししました。こうしてローマ教皇庁フランク王国を軸に、カトリック圏がヨーロッパに拡大していくのです。 

 

955年、東フランク王国のオットー大帝は、ヨーロッパに脅威を与えていたマジャール人をレヒフェルトの戦いで破り、キリスト教世界の守護者となりました。952年には、教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国を成立させたのです。この帝国は、カトリック世界の頂点に立つ国家となり、844年の長きにわたり存続しました。 

 

キリスト教宣教の使命は、ローマ帝国滅亡から近代に至るまで、西洋の多くの帝国が引き継ぎました。周辺諸国は帝国の強力な軍事力を恐れる一方、先進的な文明は、帝国の政治的影響圏を越え、広範な地域に光を発し、合理的な統治制度と洗練された文化は人々を引きつけ、諸国の政策決定に影響を及ぼしました。このような帝国の影響力により、近隣国家は次第にキリスト教を受容し、キリスト教化した国家が、また近隣国家のキリスト教化に影響を及ぼしたのです。 

 

キリスト教伝播に宣教師の役割は重要ですが、宣教師は帝国と教会、すなわちキリスト教世界が派遣したメッセンジャーで、巨大帝国の大きな威光を背景に宣教をおこなったのです。キリスト教帝国の影響が及ぶところでは、帝国に敵対する行為である宣教師迫害はほとんど起こりませんでした。反対に、キリスト教帝国の影響圏外の国家では、たとえ多数の信者を獲得しても、キリスト教は禁止され、宣教師が弾圧された歴史があったのです。フランク王国の影響が及んだ6世紀のイギリスでは、40人の宣教師によって国家のキリスト教化が成し遂げられましたが、キリスト教国家の影響圏外にあった17世紀の日本では、400人の宣教師が、決死の伝道をして数十万人の信徒を獲得しても、キリスト教は禁止され宣教師は追放、迫害されたのです。

 

 

 

●国家の生き残り戦略とキリスト教受容

 

ハンガリーポーランドは、キリスト教国家との熾烈な闘争のなかで、国家生存のためにキリスト教を受容し、中欧の大国に成長しました。オットー大帝に敗北したマジャール人(ハンガリー人)の指導者ゲーザは、自分を打ち破った敵国の宗教であるキリスト教を受容し、キリスト教共同体の一員となることで、国家の生き残りを計りました。その子イシュトヴァーンは、改宗を拒む者を武力で抑えキリスト教を国教化し、紀元1000年にはローマ教皇から王冠を贈られ戴冠し、ハンガリー王国を成立させます。ハンガリーは、ヨーロッパを苦しめた異教徒の蛮国からキリスト教世界の東方を守る要衝国家に生まれ変わったのです。 

 

ポーランドは、966年、首長ミェシュコがカトリックに改宗しました。この改宗により、自らを標的とするドイツ人キリスト教徒の異教討伐という大義名分を奪い、カトリック国のボヘミアやドイツ諸侯国と同等の外交的地位を獲得したのです。その後ポーランドは、ボヘミア神聖ローマ帝国と友好関係を結び、ドイツ人遠征軍を破って、バルト海沿岸を領有し強国となりました。 

 

バイキングが建国したデンマークスウェーデンノルウェーという軍事強国は、10世紀後半から11世紀の初めにかけてキリスト教を受容しました。ノルウェーのオーラブ1世は、オランダ、イギリスなどを訪問中にキリスト教に改宗しました。オーラブ1世は、多神教を信じ改宗を拒否する豪族を即座に殺害したといいます。この三国は国家統合と王権強化のために、キリスト教とヨーロッパ文明の受容を決意したのです。ヨーロッパを荒らし回ったバイキングは、キリスト教文明に感化され、北欧キリスト教圏を形成しました。 

 

遊牧民との戦いを続けていたロシアでは、988年、キエフ大公ウラジミール1世が、ビザンティン皇帝の妹と結婚し、ギリシャ正教に改宗し、これを国教としました。同時に、ビザンティン帝国専制君主制と文化を導入し、ヨーロッパ・キリスト教圏を構成する一員となったのです。 

 

以上、ヨーロッパのキリスト教受容の流れを見てきました。諸国はながく、多神教民族宗教キリスト教の異端を信じており、本来、改宗は容易に成されるものではありませんでした。諸国は外からはキリスト教帝国の文化的影響と政治的圧力、また周辺国との生存競争に直面し、内には、王権強化という課題を抱えていました。それらを解決するために、キリスト教帝国と友好関係を結び、国内外に対して、自らの権威と自国の優位を確立するため、超国家的権威を有するキリスト教受容に向かったのです。ヨーロッパのキリスト教受容は、国家の生存、発展戦略として行なわれ、受容主体は王権でした。国家理念の制定と普及は王権のみが決定、実行し得る事業だったからです。 

 

以上のような背景の下、10世紀から11世紀にかけて多くの国がキリスト教化し、ヨーロッパではキリスト教国でなければ、国際社会の成員とは見なされなくなりました。こうしてキリスト教は全ヨーロッパを覆う宗教となったのです。 

 

更には、近世の大航海時代以降、ヨーロッパ諸国の世界進出によるキリスト教文明圏の拡大は、征服、植民地化、それに伴う移民など、一層直接的なキリスト教帝国による対外活動と影響力の行使によって成し遂げられました。それにより南北アメリカ、アフリカ、オセアニアなどに多くのキリスト教国家が誕生したのです。

 


 
 イスラム帝国とジハード
 

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イスラム教はマホメット死後わずか10年にして大帝国を形成した


イスラム教の歴史は、世界宗教伝播における、帝国の役割と国家の生存戦略という背景を、キリスト教以上に反映しています。イスラム国家は、砂漠の多いアラビア半島で誕生し、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)とペルシャ帝国という巨大帝国に隣接していました。イスラム国家は、半島を越え、領土を拡張しない限り、どちらかの帝国に従属するしかなく、宗教共同体国家の独立と生き残りのため、自らが帝国となる道を選択したのです。 

 

イスラム教にとってジハード(聖戦)は、説得や統治、また戦いという手段を用いて、イスラム教を伝播する行動です。マホメットは、メッカで宣教を始めましたが、迫害を受けてメディナに逃れ、そこで政治権力を握りました。 

 

王権を獲得したマホメットは、イスラム共同体(ウンマ)を整え、メッカを攻略し、全アラビア半島を制圧した後、632年に62歳で他界しました。イスラム教が他の世界宗教と異なるところは、教祖の代に国家建設を成し遂げたことです。 

 

第2代カリフのウマル一世は、周辺帝国に対し、大征服を決意し、シリア、エルサレムを攻略し、641年にネハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシャ軍を破り、翌年、ビザンティン帝国からエジプトのアレキサンドリアを奪い、中東から北アフリカに及ぶ大帝国をつくりあげました。 

 

これはマホメットの死後わずか10年のことです。イスラム帝国は、ウマイア朝に至ってさらに領土を拡張します。イスラム教徒にとってジハードは、宗教的理想と国家の生存戦略がひとつとなった宗教的実践であり、それによって建設された帝国は、イスラム教の理想を実現するという明確な目的を持ったのです。 

 

中東のイスラム化は軍事力によるものでしたが、アフリカでは、イスラム教徒の隊商が、教勢拡張に大きな役割を演じました。東南アジアへのイスラム教伝播も、文明力を背景に成され、イスラム帝国の優れた文物が交易によりこの地方にもたらされ、現地の商人や指導層がイスラム教を受容しました。15世紀はじめには、イスラム教国のマラッカ王国が樹立され、国民を教化し、今日の二億人を越える東南アジアイスラム圏形成の基礎を築いたのです。

 

 

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《 こころ優しい妖怪と、千と千尋の神隠し、そしてハリーポッター 》 その宗教性の深部

   

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日本人にとって妖怪は土の匂いがする癒しキャラ

宗教・スピリチュアリティー 4 

 

永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 

●はじめに


妖怪、魔法使い、もののけなど、異界の住人があらわれるファンタジーは、「多神教の世界」で、絶大な人気を誇ります。それは「一神教」が「多神教」より魅力ある文化を発信できないからです。すなわち、「唯一なる神」を信じる人々の力不足です。そして、これら多神教的ファンタジーには、ゆたかな宗教的価値と意味を持つものもあります。クリスチャンが一神教を復興させたいならば、「スピリチュアリティー・広義の宗教」が、いったいどんな宗教性を備えているか、知らなければなりません。 

 

 

水木しげるロード
 
鳥取県の境港には、「水木しげるロード」があります。2015年に亡くなった境港出身のマンガ家、水木しげる氏の、妖怪キャラクターのブロンズ像153体をはじめ、水木しげる記念館や妖怪グッズ専門店などが集まる「異界の通り」です。境港は、妖怪を観光資源にし、全国から年間200万人以上の見物客が集まる一大テーマパークに変貌しました。 

 

妖怪は、自然のいたるところに霊的存在が潜むと考える、日本人独特の宗教心が生んだものです。外国にはこんな多彩で個性豊かな妖怪はいません。古来より、妖怪は人を喰うような恐ろしい存在と思われてきました。江戸時代後期に、浮世絵師がユニークで滑稽な妖怪を描くようになり、イメージが一変し、芝居や漫才などでも取り上げられ、妖怪ブームが起こったのです。戦後、巨匠水木しげるが、さらに豊かなキャラクターを生みだし、妖怪をメジャーな存在に押し上げました。 

 

現代の妖怪マニアは、妖怪が存在するとは思っていません。妖怪研究家を自認する多田克己氏は、「妖怪にまつわる民間信仰、口承、歴史背景、自然科学は研究できても、肝心の妖怪そのものは研究できません」と指摘します。妖怪はいませんが、妖怪たちを「存在させている」日本独特の妖怪文化は多様性に富み厖大なのです。 

 

京極夏彦氏は、宇宙人と妖怪を比較し、「―まあ宇宙人の場合、〈いないな〉と思っちゃったら終わりでしょう。妖怪はいなくて当然なんだから、強いですよ。だって、妖怪否定論者って会ったことないもん。たとえば、大槻教授だって、妖怪は否定しないと思うよ。まあ、鬼火はプラズマだという主張に対しても〈プラズマのことを妖怪方面では鬼火って言うんですよ〉って返せばいいだけだし」と言っています。 

 

 

●妖怪は癒しキャラ

 

東日本大震災の年、劇団四季が、東北地方でおこなった演劇のボランティア巡演は、ユタと不思議な仲間たちです。お父さんをなくし、東京から東北に引っ越してきたユタという転校生が、学友からいじめられ一人悩みます。ユタと友達になり、なぐさめ力づけたのは、妖怪である5人の「座敷わらし」です。この心優しい座敷わらし達は、江戸時代、飢饉のため、生まれてすぐに間引きされ殺された、不幸な子供たちの化身です。 

 

ユタを助けてあげた座敷わらし等は、震災で悲しみに暮れる東北の子供たちもなぐさめ力を与えたのです。今日、日本人にとって妖怪は恐ろしいものではなく、人間臭く、ユニークで愛嬌がある「癒しキャラ」とも言える存在です。 

 

今は、ロボット技術や人工知能が進歩し宇宙開発も進んでいます。そんな時代の趨勢を考えると、ロボットや宇宙人など未来系キャラが人気をよび、妖怪は後退するのが自然だと思うのですが、妖怪ウォッチがヒットするなど、新たな展開を遂げています。21世紀になり、「科学の子」として長くスーパースターの座にあったアトムより、墓場で生まれ、ちゃんちゃんこを着た「妖怪の子」鬼太郎が、今もテレビで放映され、頻繁に私たちの目に触れる現実は、奇異であるとともに驚くべきことです。 

 

科学の発展により、人は安楽な生活を営むようになりましたが、科学のもつ恐ろしい力にも気づきました。また個人の能力を越えどんどん進歩、変化する社会は、人々から人間性を置き忘れさせます。 

 

現代人は、妖怪という、科学と対極にある「人間臭い」存在を友だちにすることによって、人間性と土着性を取り戻そうとしているようです。今日、日本文化が国際的に注目され発信されていますが、「YO-KAI」が、世界で歓迎される時代が訪れるかも知れません。

 

 

〈以下は、拙著『デバイン・プリンシプルへの招待』の内容と重複する部分が多く含まれます〉

 

 

 

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陰暦的知性とは、世界が存在する意味を教えてくれる知性です

 

 

●「千と千尋の神隠し」の宗教的メッセージ

 

現代は、マンガ、映画、小説などに宗教的なものが多く、これらは「どこまでが宗教か?」を考えるとき問題になります。深い宗教的意味があるものでも、「ただの娯楽」と捉えてしまうことが多いからです。しかし、人は知らず識らず、「娯楽」から影響を受けます。50年ほど前、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」は、科学を信頼する世界観を発信しましたが、今日、「もののけ姫」や「バケモノの子」は科学への信頼とまったく逆の世界観を発信するでしょう。 

 

『宗教と現代がわかる本』(平凡社)の、2007年創刊号のあいさつには、現代日本人の宗教に対する意識は、狭義の宗教には無関心、組織としての教団には違和感を持ちながらも、広い意味での宗教文化、あるいは精神文化への関心は高まっているようです」とし、毎年「広義の宗教」についてユニークな内容を紹介しています。2015年版特集は「マンガと宗教」で、マンガのなかの宗教性を取り上げました。 

 

 

●異界と過去の世界

 

驚くべきは、宗教的物語の人気の高さです。日本の歴代映画興行収益の一位は、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」です。この物語の宗教的背景とメッセージを考えてみましょう。まず、道端に多くの石の祠があらわれ、この先が神秘的領域につながることを暗示します。千尋が迷い込む古風な建物は、八百万の神が疲れを癒しにやって来る温泉旅館です。注目すべきは、科学的法則を超越した異界が、未来ではなく過去の世界で、老人がキーパーソンだということです。「ロードオヴ・ザリング」も「ハウルの動く城」など多くの作品もおなじです。 

 

なぜ、不思議の世界が「過去の世界」なのでしょうか。科学が発達する前、世界は進歩が緩慢でした。先祖、自分、子孫の生活は基本的に大きな変化はありません。そのような社会では過去が最大の情報源であり、それをよく知る老人が重んじられます。集まりでは老人の意見が尊重され、未来を担う子供は老人の昔話を聞いて成長しました。「老人」こそ過去、現在、未来をつなげる役割を果たしていたのです。 

 

また、医学が発達していない時代、人は短命でした。いまは抗生物質などで簡単に治せる病気でも命を落としたのです。歴史的に日本人の平均寿命は30歳代前半だったそうです。子供をたくさん産んでも、幼くして死ぬ子もおおく、20代なかばになれば、自分の知っていた人のなかには、生きている人より、死んだ人のほうが多かったのです。死は常に身近にあり、忘却して生きることはできません。 

 

昔の人々は、宗教的でなければ平安を得ることができなかったのです。現実と死後の世界の境界もあいまいで、死者と通じることができると信じていました。人は死んで夜空の星になると譬えるように、夜は霊的世界につながり、死者と接近できる時間でした。人々はながい夜のあいだ、満天の星空を見つめながら、死者と現在に生きる者、未来の子孫のことを想ったのです。 

 

また、夜の思いや夢を重視し、夢に死者が現れたら死者と会ったということなのです。このように昔の人は、過去・現在・未来、そして死者・生者・子孫がつながっていました。この強いつながりがあればこそ人類は今日まで生き残り、私たちが存在しているのです。そのつながりが、「精神(こころ)の故郷」です。 

 

現代人はそれらを失いました。科学の進歩はあまりに早く、社会は激変しています。自分と父母、そして祖父母の生活はあまりにも変化し、過去を振り返る余裕などありません。有名人ゲストの先祖を追う、NHKの「ファミリーヒストリー」を見て感じるのは、誰もが父母、祖父母のことをよく知らないということです。これが現代人です。今は老人から昔話を聞いて育った人はほとんどいないのです。 

 

今日のスマートフォンの機能は30年前にはSF世界のものでした。今は1年前のモデルは旧式になってしまいます。さらに進歩する30年後のスマホの機能はだれも想像すらできません。人々はこの急激な変化について行くのがやっとです。急速に変化する時代、老人は真っ先に取り残され、技術、情報分野で遅れた存在に転落します。昔のように、過去、現在、未来をつなげる役割など果たしようがありません。 

 

また、医学が発達し、人々は長寿を獲得し、豊かで楽しい生活のなかで、死を思わず生きることができます。死は忘れるべきものと忌避され、死者と通じることなどはオカルトの話しになってしまいました。 

 

現代人の生活は、過去、現在、未来がつながらず、死者、生者、子孫がつながっていないのです。これは、はっきり自覚されなくとも、人間精神に危機をもたらす重大問題で、心の奥には底知れぬ不安と孤立感が存在します。現代人が孤独なのはこれが原因です。不思議の世界が過去であるのは、人が過去に享受した「精神の故郷」を取り戻す試みです。それを取り戻してくれるキーパーソンこそ「老人」で、多くの物語では、老人が救世主のごとき力を持つ存在として、鮮やかに復権するのです。 

 

 

●ゼニーバの愛

 

千と千尋の神隠し」のメインテーマは価値観の問題です。ここを支配する湯ババは贅沢な場所に暮らし、すさまじい魔力で君臨する物質的欲望に縛られた権力者です。千尋を助けるハクは強力な魔法を得るため湯ババの手下になった龍、廃棄物で本来の姿を失った神、金塊を魔力で作り出しとめどない食欲をもつカオナシカオナシの出す金塊に狂喜するモノノケ達、湯ババのわがままな赤ん坊。まさに欲望が渦巻く現代社会の縮図です。 

 

これらの間違った価値観を変えてくれるのは、過去、現在、未来のつながりを知り、生と死の意味を悟る湯ババの姉ゼニーバです。ゼニーバは、森の中で昔のヨーロッパの農民のような質素な家に住み、魔法に頼らない暮らしをしています。千尋のために、魔法で作ったら意味がないと言い、皆とともに糸を編んでお守りの髪留めを作ってあげます。強力な魔法使いであるにも関わらず、魔法より思いやりと愛情が大切なことを千尋に教えるのです。このゼニーバの働きにより、皆の価値観が変わります。 

 

結局、湯ババは千尋の両親を許し、家族は元の世界に戻ることができます。そして、エンディングに流れる主題曲「いつも何度でも」に、この物語のメッセージが集約されています。 

 

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢をみたい

 

かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える


………


さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

 

生きている不思議 死んでゆく不思議
花も風も街も みんなおなじ

 

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう


……… 


はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ

 

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

 

 

この歌詞は、「死」をつよく意識しています。ストーリーも生死の境が明確ではありません。異界に迷い込んだ時から死後の世界に入ったようでもあるし、ゼニーバのところに行く電車の様子が死の世界のようです。全ての存在の宿命としての死、精神の故郷を失い傷ついた心、そして愛と思いやりのある存在から教えられ、大事なことを悟り、新たな力を得た喜びを表現しています。 

 

 

●ふたつの知性

 

知性には「陽暦的知性」と「陰暦的知性」があると思います。陽暦的知性」は、太陽と昼に象徴される、光と熱を受けエネルギーで構成される、目に見える世界を解明し運用する知性で、科学的知性ということができます。自然科学、社会科学、人文科学をふくめ、論理で把握でき、人々に説明できる知性です。人類はこの知性を活用し、驚くべき発展をとげました。 

 

一方、「陰暦的知性」は、月と星、夜に象徴される知性で、目に見えず、論理で把握できず、説明が困難な知性です。満天の星空の下で、祈り、思索して知る、霊的、宗教的知性ということができます。これは、現実に役立つ陽暦的知性と比べ、無意味なものと認識されやすいものです。現代人はこの知性が退化しました。 

 

しかし、夜空に輝く星は何千万、何億光年という彼方にある恒星が放った光で、星空とは天文学的スケールの世界なのです。それは神や仏、永遠、無限を感じることができる世界です。反対に、昼に見える太陽と地球は、夜みえる世界と比べると、大海とコップの水以上の違いがある小さな世界です。 

 

陰暦的知性とは、『星の王子さま』で、「心で見ないと、なにも見えない。いちばん大事なことは、目には見えない」と言っている、目に見えない世界の知性です。この知性は、世界の構造を解明する知性ではなく、世界が存在する意味を教えてくれる知性です。 

 

私たちはふたつの知性があるということを意識すべきです。昔の人は夜空を見て、自然に、陰暦的知性を磨きました。しかし、現代人は都市化と電気の力によって、夜が放つ霊性を覆い隠してしまいました。蹂躙したと言った方がいいかも知れません。 

 

電気をつければ、生活空間は昼のように明るくなり、あえて夜空を眺めません。たとえ夜空を見ても、大気汚染と都市の明るさで星はほとんど見えません。生活のなかで、月と星が発する偉大な霊性を失ったことが、現代人が宗教性をなくした大きな原因ではないでしょうか。よく、夜はマイナス思考になると言いますが、それは本来、夜がもつ強力な霊的パワーを自分たちが遮断し、ただの暗い時間にしてしまったからです。 

 

現代人は、陰暦的知性を回復しなければなりません。それを推進するのが宗教者です。過去、信心深い「老人」が果たしてきた、人間の過去、現在、未来をつなげる精神的役割を果たせるのは、同じように神や仏を深く信じる「宗教者」しかいないのです。 

 

 

ハリー・ポッターダンブルドア校長

 

1997年から2007年にかけ、イギリスのJ.K.ローリング氏が書いた「ハリー・ポッターシリーズ」は、全世界4億5000万部という空前の発行部数を達成しました。映画も大ヒットし、アメリカと日本にはテーマパークもつくられています。 

 

ハリー・ポッター」と「千と千尋の神隠し」は似ています。ハリーが学ぶホグワーツ魔法学校は、まるで中世の城で内部も過去の世界、キーパーソンもやはり老人です。魔法族の世界では、ヴォルデモートという恐ろしい魔法使いが復活する危機に直面していました。ホグワーツ魔法学校にも、ヴォルデモートに従う者たちがあらわれ、学校を支配するため暗躍します。 

 

ヴォルデモートを倒す秘密を知るのが、偉大な魔法使いであり教育者であるアルバス・ダンブルドア校長です。銀色の長いひげに半月メガネをかけたこの老人は、ハリーがヴォルデモートを倒すことができるように、自分の命を犠牲にし、ハリーに死を乗り越える勇気を持つことを教えます。ハリーがそれを悟り、ヴォルデモートの手により致命傷を負い、死の淵の臨死体験ダンブルドア校長に再開します。このときの校長の話に重要なメッセージが込められています。 

 

「しかも、ハリー、あの者の知識は、情けないほど不完全なままじゃった!ヴォルデモートは、自らが価値を認めぬものに関して理解しようとはせぬ。屋敷しもべや妖精やお伽噺、愛や忠誠、そして無垢。ヴォルデモートは、こうしたものを知らず、理解してはおらぬ。まったく何も。こうしたもののすべてが、ヴォルデモートを凌駕する力を持ち、どのような魔法も及ばぬ力を持つという真実を、あの者は決して理解できなかった」。 

 

愛や忠誠、無垢という精神の価値が、魔法にまさる真の力を持ち、悪に打ち勝つことができると語ります。現代人にとって、「魔法の力」とは、絶大なちからをもつ「科学の力」に置き換えられます。私たちに、科学の力に頼るより、愛や無垢な心が重要だということを教えています。 

 

また、死について深遠な思想を述べます。「―なぜなら、真の死の支配者は、〈死〉から逃げようとはせぬ。死なねばならぬということを受け入れるとともに、生ある世界のほうが、死ぬことよりもはるかに劣る場合があると理解できる者なのじゃ」、「死者を哀れむではない、ハリー。生きている者を哀れむのじゃ。とくに愛なくして生きている者を」。 

 

生きることより、死ぬことがさらに価値ある場合があり、間違った価値観をもって生きることは死よりもはるかに劣ること。そして、愛なくして生きる者は、死者よりも哀れむべき者と語ります。そしてハリーは、最強の杖を手に入れてしまったヴォルデモートに、決死の戦いを挑む決意をします。 

 

ハリーは最後に、「これは現実のことなのですか?それとも、全部、僕の頭の中で起こっていることなのですか」とダンブルドア校長に問いかけます。校長は、「もちろん、君の頭の中で起こっていることじゃよ、ハリー。しかし、だからと言って、それが現実ではないと言えるじゃろうか?」と、意味深長な答えを返します。 

 

現代人は、夢や予感、不思議な体験などは、偶然として無視することが普通です。しかしこのなかに、神が人に伝えたいメッセージが込められているかも知れないのです。とくに宗教者にとって神秘体験は軽く扱うことはできません。神はこれらの現象を通じ、大事なことを知らせようとしているからです。 

 

宗教の先人たちは皆、神秘体験を通して神が自分に与えた使命を確信し、偉大な業績を残しました。神秘体験がなければ、宗教の存在も発展もなかったのです。頭のなかで起こったことが現実を動かす大きな力を秘めているのです。

 

 

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平和的天皇制と島国的サムライ -島嶼独立国家の守り人-

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王者の使命は国民のため外敵と戦うこと

島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-3》 

 

 永田正治 (Masaharu Nagata)

 

 

 ●はじめに

5月1日の新天皇御即位をもって、令和の御代が始まりました。歴史的に、中華帝国から自由だった島嶼独立国家を統治した制度は、外国勢力から完全に独立していた、天皇制と武士(幕府)でした。この天皇制と武士のあり方を、諸外国の王権と比較し論じることは、日本という国の本質をとらえるカギを握るものです。




世界の王権の存在理由は「外敵と戦うこと」 

 
諸国は通常、近隣に油断のならない敵をもち戦争に備えなければなりませんでした。歴史的に国家にとって最も危険な存在は、外国や異民族だったのです。ヨーロッパは諸国が割拠し、中国は周辺異民族との絶えざる抗争がありました。世界において、国防は王権の義務であり存在理由で、君主はまずもって、外敵と戦う意思と力をもつことが要求されたのです。


世界では異民族の征服王朝に支配され、外国の血を引く君主に統治されることはありふれたことでした。ところが日本は、内外の歴史文献に外国によって征服されたという記録はありません。私達の国家観を考えるとき、「異民族によって支配された覚えがない」ということは重要です。日本は外国の脅威に直面しなかったので、王権の存在理由が外敵から自国を防衛することにはなり得ません。天皇制のあり方を論じる時、まずこの事情、すなわち日本史の特殊性を踏まえる必要があります。


古代、天皇は軍権を掌握し、軍人的性格を帯びていた時代もありましたが、平安時代を通じて軍事とは縁のうすい存在となり、武家が台頭すると軍事は全く武家に依存するようになったのです。また、ほとんどの天皇は親政を行なわず貴族や武家が政治を担っていました。



ヨーロッパでは皇帝や国王は軍隊を率いて戦いました。十字軍戦争のとき、ヨーロッパの君主は自ら騎士軍団を率いてアジアに遠征しました。19世紀初頭、アウステルリッツ会戦では皇帝ナポレオンに対しオーストリアとロシアの皇帝が軍を指揮し戦ったのです。数年前、イギリスのヘンリー王子が、アフガニスタンでの兵役中にタリバン兵士を殺害したと語ったことは衝撃的なニュースでした。中国や韓国でも軍権は君主が掌握するものです。これら諸外国の君主と日本の天皇はあまりにも性格を異にします。



天皇弱体化と島嶼国家的サムライの台頭で「国のかたち」が形成

7世紀後半、天武・持統朝に「日本」という国号、「天皇」号が誕生し、天皇の宗教的権威も確立しました。当時の日本は、朝鮮半島の白村江で唐の海軍に大敗し、唐・新羅連合軍の侵攻に備えていました。初めて直面した国家的危機のなかで強力な天武政権が登場したのです。



この程度の危機に晒されるのは諸外国では日常的なことです。敵国と国境を接している状況では、突然敵軍が侵入し城塞が占領され、奪還できないときは外交戦略を駆使します。韓国の史書三国史記』を見ると、このような戦争と外交の記述であふれています。


結局、唐・新羅軍の侵攻はなく、平和な国際環境に戻りました。平安時代には貴族が権力を振るい、院政時代から平家執権時代を経て、鎌倉幕府が開かれます。13世紀の承久の乱天皇権力は大きく制限を受け、元寇のときは外交から国家の意思決定まで幕府が行なったのです。14世紀の南北朝動乱は、天皇権力の決定的な弱体化をもたらし、足利義満にいたっては王権簒奪まで目論みました。


以上のような、天皇が力を失って行く歴史は天皇制の弱体化過程と説明されます。しかし、この弱体化して行く過程がむしろ、日本ならではの王権が確立した歴史なのです。国の王権の性格は、その国の置かれた国際環境に大きく左右されます。周辺に敵国が存在するとき、王権は強硬になり、平和が続くと融和的になりました。日本は平和時代が諸外国と比較にならないほど長かったのです。武力を持たなかった天皇制存続の理由は、国内的な要因ではなく外からの脅威がなかった「島嶼平和国家」をめぐる事情によるものです。国際環境が平和な国なので、平和的王権が国情に適合し、平和的君主制が存続し、発展したと見るべきです。 


日本は武力、権力を持たない王朝が千年以上続きました。西洋では理想の王国を称す「千年王国」という言葉がありますが、このように長期間、ひとつの君主制が続くことは極めて稀で、それが国のあり方に与えた影響は計り知れません。天皇制が力を失ってゆく期間に、日本の統治システム、すなわち「国のかたち」が成立したのです。


日本を実質的に支配した「サムライ」も、島嶼独立国家の土壌から生まれた日本的なものです。武士は、源平抗争、南北朝動乱、戦国乱世など幾多の戦乱を引き起こしましたが、これは国内での主導権争い、政権争奪戦で、諸国が直面した外国との戦争とは本質的にちがいます。私達は大きな被害を受けることなく撃退した元寇について、後々まで底知れぬ恐怖体験として語り継ぎましたが、遥かに多くの人が死んだ戦国動乱に対しては元寇ほどの恐怖心を抱いていません。外国による侵略のインパクトは、同族で戦う国内戦とは次元を異にするのです。


このように武士団は、外敵から日本を防衛することも外国に侵攻することも想定せず、他の武士を抑えて国内の覇権を掌握し維持することを目的とする、国家生存と拡張の必要と結びつかない軍隊でした。幕府というものも「内向き」で「私的」な政権で、強力な軍事力を保持していてもこの国の枠を越える存在ではなく、大陸に覇権を拡大するなどというスケールの大きな野心やビジョンは持たなかったのです。



天皇は日本文化の中心である京都にあって、武家の上位に立つ正統君主でした。平和的な天皇を戴く武家政権というかたちは、平和を上位概念とし、武力を下位概念とする独自の国家体制で、日本は外からはサムライが治める「武の国」と見えても、国のあり方は、天皇を中心とする、明確に「文治の国」の形態をとる国家だったのです。

 

 

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本来の姿を変え、軍服を着る天皇になり、天皇制と島嶼独立国家は危機に陥った

 

 

天皇制の危機と島嶼独立国家の変質

天皇制と島嶼独立国家の危機は、外国に侵攻し、あるいは外国の君主制を取り入れ、天皇制と国家のあり方を改革した時に訪れました。豊臣秀吉は、アジアに覇を拡げ日本の国家体制を変革しようと企てました。彼の「唐入り(中国征服)構想」は天皇がアジア大陸で中国皇帝のような存在になるというもので、日本が帝国になれば「島嶼独立国家」は終焉し、天皇制も普通の王権に変質します。


力で君臨する者は更に大きな力によって滅ぼされます。秀吉の国家構想は、天皇制にとって極めて危険なものでした。中国征服を目指した文禄・慶長の役が失敗したことは、アジアにとっても日本にとっても幸いなことでした。



徳川幕府は伝統的政治体制である幕府制を踏襲し、天皇を上位の存在として戴く一方、日本のあり方を変える外国侵略を放棄しました。家光代までは、朝廷と幕府は葛藤を経ましたが、綱吉代となり関係は良好なものになりました。


近代になり、日本は西洋の国家制度を取り入れ、天皇制はヨーロッパ君主と似たものになりました。ヨーロッパの皇帝は軍の最高司令官で、軍人は皇帝に忠誠を誓い皇帝も軍服を着用しました。それに倣い、天皇も軍を統帥する最高司令官となり軍服を着る君主となったのです。これは大和朝廷を建てるために甲冑に身を固めた「大王」が近代に蘇ったと言え、千年かけて築いた平和的天皇制の性格が変えられ、島嶼独立国家が大きく変質したことを意味しました。


長いあいだ、天皇は対外戦争とは無関係でした。元寇の時に戦った武士や、文禄・慶長の役で戦った武将に天皇が最高司令官という意識はいささかもありませんでした。中世、近世期の最大の対外戦を指令したのは天皇ではなかったのです。天皇と軍事を結びつけた戦前の天皇制は日本の伝統と合致しないものでした。戦後、外国では理解困難な「象徴天皇制」が定着しましたが、それは伝統的天皇制とちかいものだったからです。


現在のヨーロッパ王室は政治権力がなく、国民の総意によって存在します。しかし天皇制との違いは、ヨーロッパの王室は、近世以降に、政治権力を持たない王室に変わったということです。それは民主主義を標榜する市民革命によるもので、革命政府が王の権力を奪ったのです。そのために王を処刑することさえしました。ところが天皇制は、民主的な政治体制とも共存可能な性格を、すでに中世期に備えていました。この特殊な君主制は、島嶼独立国家のみが成立させ得た王権で、日本が平和尊重の伝統をもつ国であることを示す歴史的証左でもあります。


ここまで、難解な議論、お付き合いいただきありがとうございます。次回は、Coffee Breakとして、スピリチュアリティーをテーマに届けしたいと思います。

 

 

 

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