サンクチュアリ通信BLOG 平和戦略

世界平和戦略、日本の国家戦略から、宗教、歴史、政治など、さまざまな分野を幅広くあつかうBLOGです。 分かりやすく、面白い、解説に努めます。

《キリストから孔子へ》・欧州宣教師から朝鮮通信使に

 

f:id:heiwasennryaku:20190624232225j:plain

朝鮮通信使は400名を超える大使節団であった


島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-13》

  

永田正治(Masaharu Nagata)

  


徳川幕府によるキリシタン大迫害と鎖国・そして時代は、儒教強化・「朝鮮通信使」来訪に

 

秀吉が死に、宣教師は再び自由に活動できるようになりました。家康は、秀吉死亡の年にフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズースと会い、フィリピンとの通交斡旋を依頼し、翌年、ジェズースは江戸に教会を建てます。以後も、家康は通商拡大を計るため宣教師と会見したのです。

 

 

イエズス会だけではなく、フランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会の宣教師も続々と来日し、各地に教会を建て、宣教に力を注いだので信者は急激に増えました。慶長17年(1612)の全国キリシタン数は60万人に達したといいます。キリスト教信者は、秀吉のキリシタン禁令以降も、倍以上増えたのです。

 

 

キリスト教発展とヨーロッパ文化の受容は並行して進み、キリスト教の絶頂期は南蛮ブームの絶頂期でもありました。長崎を窓口とした南蛮との交流のありさまは「南蛮屏風」に生き生きと再現されています。桃山時代から江戸時代初期に描かれた南蛮屏風は、長いキリシタン禁令時代があったにもかかわらず、今日、60点余りも残されています。

 

 

f:id:heiwasennryaku:20190628004225j:plain

南蛮屏風のユニークさが戦国脱亜の輝きを伝える


来航した巨大な南蛮船、威風堂々としたキャピタンや活発に動き回る船員たち、陸で彼らを迎える宣教師、南蛮商人と日本人が商談し、教会が描かれています。まさにジパングで展開する異国文化の世界で、南蛮屏風を見ると日本史上この時代がいかに異質な時代であったか一目瞭然です。信長が大胆に導入、庇護した西洋文明とキリスト教が30年後には、南蛮文化隆盛と60万信者という花を咲かせたのです。

 

 

しかし、これを頂点に時代は急変します。慶長17年(1612)、岡本大八事件が起きキリシタン禁令が発せられたのです。この事件はキリシタン大名有馬晴信が、幕臣でやはりキリシタン岡本大八にだまされ、幕閣に旧領回復の働きかけをしてもらう代わりに岡本に賄賂を贈ったことが発覚した事件で、これを機に幕府はキリスト教を禁止しました。

 

 

この禁令以降、幕府のキリシタン弾圧は強化され、全国にキリシタン取り締まりと処刑が広がり、元和5年(1619)に京都、8年に長崎、9年に江戸で、それぞれ50名以上を処刑しました。寛永14年(1637)、厳しいキリシタン禁令下で、島原の乱が起き、幕府は信徒4万人あまりを殺害し、この乱を鎮圧、その後、各地で多くのキリシタン処刑がおこなわれます。翌年、ポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制を完成します。こうしてキリスト教と南蛮文化の隆盛は収束し、戦国脱亜の時代が終焉したのです。

 

 

一方、徳川幕府は南蛮に代わる新しい外交関係を持ちました。家康は文禄・慶長の役によって断絶していた明と朝鮮に国交回復を働き掛け、明はこの呼びかけを無視しましたが、朝鮮王朝は承諾し、慶長12年(1607)、日本に通信使を派遣して来たのです。

 

 

一回目の通信使は日本との修好使節で人員は467名に及びました。「信を通じる使節」という意味の通信使は、新将軍の襲職の祝いや平和を祝うために徳川時代を通じて12回派遣され、400名から500名の大規模なものでした。

 

 

徳川幕府が正式外交を結んだ国は朝鮮王朝だけで、オランダと中国は貿易国という扱いでした。オランダのカピタンが将軍に挨拶に行くときは30名ほど琉球の慶賀使、恩赦使は70名から100名程度で、朝鮮通信使は外交的地位と規模において他の使節に抜きん出ていたのです。

 

 

通信使の行列は鎖国下の国民にとっては外国文化に触れる数少ない機会で、一行を見ようと大勢の人々が沿道に集まりました。将軍襲職の祝賀雰囲気のなかで韓国独特の楽器を奏でながら異文化の大使節団がやって来たのですから、通信使の及ぼした文化的インパクトは相当なものだったでしょう。

 

 

全12回のうち半数の6回は明暦元年(1655)の4代将軍家綱の襲職祝賀までの48年間に来訪し、家光の時代には3回もやって来ました。通信使は幕府体制確立期に集中して派遣されたのです。

 

 

特に注目すべきは寛永13年(1636)、家光代にやってきた通信使の意義です。幕府は寛永10、11、12、13年と鎖国令を強化し、鎖国が完成した年に「泰平祝賀」のための通信使がやって来たのです。まさにキリスト教禁止と貿易統制という鎖国体制に突入した時、特例の通信使が韓国から来訪したタイミングは幕府外交の転換を際立たせるものでした。

 

 

 

●徳川日本は「儒教の先進国〈朝鮮王朝〉」から多くを学んだ

 

実は、このときの朝鮮王朝は日本に泰平祝賀の使節を送るような状況ではありませんでした。9年前に満州女真族の清の侵入を受け、宗主国の明と新興勢力である清との中間に立ち苦しんでいたのです。朝鮮王朝は日本の泰平を祝う一方で自国はたいへん苦しい時期でした。

 

 

使節を送った年に清軍はふたたび侵入しました。朝鮮は敗北し、翌年、国王仁祖が清の太宗に屈辱的な三排九叩頭の礼をとり臣下となり、国王の長子と第2子、諸大臣の子を人質に差し出す等の厳しい条件を呑み降伏しました。明朝は更に危うい状態で、仁祖降伏の9年後、明は滅亡し清朝による中国支配が始まりました。日本が鎖国にむかうこの時期、東アジア情勢は不安定で明朝と朝鮮王朝は国家存亡の危機に直面していたのです。

 

 

日本と中国は国交が開かれないまま、明、清の交代期になってしまいました。清との国交を考えなかった幕府は明が滅亡するとき多くの亡命者を受け入れました。儒学者朱舜水が有名ですが、数万にのぼる中国人が日本に逃れて来たといいます。

 

 

幕府は朝鮮王朝との外交を重視し、莫大な経費を使い通信使を歓待しました。通信使を通じた交流は朝鮮を朝貢国とし徳川幕府の威光を示す目的があったと思われがちですが、そのような上下関係とは言えないものでした。家康は儒教の価値を認め幕府の中に受容しましたが、日本の儒教研究は遅れていました。朝鮮は儒教の先進国で、日本は通信使を通じて儒教に関する知識、書籍などを得たのです。

 

 

両者の意思疎通は漢字の筆談で行なわれ、朝鮮側の使者は儒教の優れた知識を持つ士大夫たち、日本側は儒学者、あるいは儒教に造詣が深い人々でした。行き交う情報はほとんど儒教についてのことで、日本の学者だけではなく朝鮮の学者もこの交流で学ぶところが多かったといいます。両国の交流は事実上、儒教の交流と言えるものでした。

 

 

信長時代から日本の国際交流の中心は南蛮でした。信長は宣教師を優遇し秀吉と家康も執政初期は宣教師と交流しました。ヨーロッパからは400人以上の宣教師が派遣され、おおくが日本に長期滞在し盛んに交流を行ないました。それが1612年の禁教令以降は途絶え、一方、朝鮮通信使は大規模使節として来日するようになり、南蛮に替わり国際交流の中心的役割を演じるようになったのです。

 

 

それは外国情報の導入先がヨーロッパのキリスト教宣教師から朝鮮王朝の士大夫に変わったことを意味し、日本は知識交流という面からも、ヨーロッパ文明からアジア文明へ、キリスト教から儒教へ、すなわち、「脱亜」から「入亜」に大きく転換したのです。 

 

 

f:id:heiwasennryaku:20190624232644j:plain

宣教師の汗、信者の血が流された長崎、天草が、昨年、世界文化遺産に指定された

 

 


カトリック宣教師の「愛」と「独善」

 

宣教師は強い使命感を抱き日本へやって来て、身分の上下を問わずあらゆる階層の人に福音を伝えました。彼らの献身と人々に対する愛情、殉教も恐れない信仰はまことに賞賛すべきです。今日のカトリックは他宗教の価値観を認め共存、協力を目指す一方、世界の融和を訴え続けています。

 

 

しかし16世紀のヨーロッパ社会ではキリスト教が唯一の真理で、異教は悪魔とする考えが常識でした。宣教師たちはそのような教義を教育する立場の人々で、彼らに他宗教尊重を期待するのは無理なことでした。

 

 

宣教師が日本の伝統的信仰を否定し排他的宣教を行ったことは、いかに日本人の霊魂を救うという目的であったとしても、一方的なヨーロッパ文明の押し付けと言えるものでした。立場を代え、もし同時代に日本の僧侶がヨーロッパに渡り、キリスト教を批判し聖像を破壊したらどうなっていたでしょうか。

 

 

当時のヨーロッパ文明は大航海時代を開き、領土と宗教を拡げるためにアメリカ大陸や極東まで進出する強力なものでした。この文明と信長が出会って盛んな交流が成されました。信長にとってヨーロッパ文明は自分が実行したいことの大いなる示唆を与えてくれるもので、両者の文明遭遇は互いに引き合うものでした。

 

 

しかし一方で、西洋からやって来たキリスト教はアジア的価値観との共存を拒否し、文明衝突を引き起こしたのです。宗教勢力が大規模に神社仏閣を破壊するなどと言うことはこの国の歴史にかつてありませんでした。

 

 

この章の冒頭に載せた「われらは唯一のデウス、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会を唱道する。日本には13の宗派があり、そのほとんどすべてが礼拝と尊崇とにおいて一致しない」という言葉のように、日本では異質の宗教が、葛藤しつつも棲み分け共存していたのです。

 

 

スペイン人はアメリカ大陸でインカ文明とアステカ文明というふたつの文明を滅ぼしてしまいました。その後、原住民に過酷な労働を強いたため次々と死んで人口が減少し、アフリカから奴隷を投入しました。近代に至っては西洋列強の力が全世界におよび、インドはイギリスの植民地となり、中華帝国も半植民地化の運命を辿りました。これらは文明の遭遇、衝突の結果です。

 

 

私達が「南蛮の時代」から学べることは、文明の遭遇が引き起こす巨大な力を自覚することです。文明が遭遇する時、途方もない力が生まれます。しかしそれは創造的な力になるとは限らず破壊的な力になることもあるのです。文明が出会ったとき、自分達の価値観を押し出し、異なる価値観を排斥するとき、両文明間の共存余地はなくなり破壊的結果を招来します。文明遭遇が平和の実を結ぶためには異文明を尊重することが欠かせないのです。

 

 

日本は近世の初期にヨーロッパ文明に遭遇し、それと衝突する結果になりました。しかしまた自国の文明を他国に押し付けようと文禄・慶長の役という衝突を演じたのです。この文明遭遇、衝突により外来宗教を迫害し隣国の人々を殺害する結果を招きました。多くの殉教者と犠牲者を生んだふたつの悲劇は日本史の深い闇となり、文明衝突の代価の高さを私達に教えます。

 

 

戦国時代は人々の関心が高い時代で、信長は日本の歴史人物のなかで1、2位を争う注目度と人気を誇ります。戦国時代を見るとき、武将をめぐる動きだけではなく、大航海時代の波に乗り巨大なスケールで襲った文明の遭遇と衝突の意味を考え、平和のための教訓とし忘れないことが、私達にとって真に戦国時代を価値あるものにすることだと思います。

 

 

 

●応援クリックをお願いします。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村