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世界宗教史のパラドックス -帝国が宗教を伝播した-

      

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コンスタンチヌス帝の改宗は「ヨーロッパの改宗」といわれる

 《島嶼独立国家・日本 -グローバリズムと戦う日本文明論-4》 

 

永田正治 (Masaharu Nagata ) 

 



●はじめに


本論では、帝国=悪、とは捉えません。帝国こそ文明の守護者であり、帝国がなければ、高度な広域文明は形成されませんでした。本来の帝国の使命は、その強大な力で、領土の治安を維持し、安全な交易を保証して経済を発展させ、国民の生活を安定させることです。もうひとつ重要な使命があります。それは、聖人の教えを広げ、人々が正しい人生をおくることによって、平和で幸福な社会をつくることです。宗教の保護、奨励も帝国の役割なのです。しかし、多くの帝国は、支配者みずから、聖人の教えに背き、腐敗し、国民に暴虐をふるい、悪なる帝国に変質してしまいました。そのため、王朝は代わったのです。現代の、グローバリスト帝国も、暴利を貪らず、人類の幸福に寄与するならば、問題はありません。今日まで、帝国の政治、経済はすでに研究されました。本論では、人類の精神史、すなわち、帝国が世界宗教を拡大、奨励した歴史に焦点をあてます。それにより、世界宗教発展の真実、そして、帝国から独立していた島嶼独立国家・日本の宗教受容の特殊性を知ることができます。

                       * * *

全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
           イエス・キリスト大宣教命令. 『聖書』


                 

 ●帝国は宗教を伝播する

 

エス、釈迦、孔子マホメットなど、世界宗教(universal religion)の創始者が人類史に及ぼした影響は絶大で、いかなる世俗の覇者も遠くおよびません。その崇高な精神と普遍思想は、おおくの国々に伝播し、世界史の発展を牽引しました。しかし、現実における世界宗教の伝播は、「帝国」の役割に注目せざるを得ません。 

 

今日のように、信教の自由が認められる以前、世界宗教の伝播は大きく見てふたつの段階があったと言えます。第一段階は、教祖が布教し、そして、教祖の死後、信徒たちにより宣教が進展し、社会的基盤をつくり、帝国によって宗教が公認されるまで。第二段階は、その宗教が、帝国の国教となった後の段階です。 

 

世界宗教は、帝国に公認されるまでは、社会の少数者、弱者として宣教をすすめる苦難の時代を経、帝国の国教となった後は、一変して、社会の多数者、強者に転換しました。優れた普遍思想をもつ世界宗教は、帝国統合の理念、国民の信仰となり、帝国自体が、宗教の教えを受け入れ、普遍宗教的な国家に姿を変えたのです。教えの内外への伝播は、帝国の文明力と政治力を背景に推進されました。世界宗教の歴史は、帝国の役割なしに語ることはできません。そしてほとんどの場合、次の仮説が適用できます。 

 

1.世界宗教はそれを受容した帝国(強国)の影響力が及ぶところでは順調に伝播した。

 

2.反対に、その世界宗教を受容した帝国(強国)の影響力が及ばないところでは伝播に困難が伴った。 

 

歴史的に、多くの国は自国が帝国であったか、あるいは帝国の影響下にありました。諸国における世界宗教受容のあり方は、ほとんど前者の仮説を適用できます。しかし、帝国の支配と圧力を受けなかった、独立国家日本は、後者に当てはまり、日本に伝来した世界宗教は困難に遭遇したのです。古代における仏教伝来は戦争を引き起こし、近世のキリスト教は大迫害を受け、儒教は国家統治理念になるまで長い時間を要しました。諸国の世界宗教受容の歴史と日本のそれを比較すると、日本の特殊性が明らかになるとともに、国家の世界宗教受容において、何が決定的影響力を持ったのかということを知ることができます。 

 

以上のような世界宗教受容に関する理解は本論の骨格をなすもので、ここではまず、ヨーロッパにおけるキリスト教の歴史を中心にこの問題を考えたいと思います。 

 

キリスト教は、教祖イエスが33歳で十字架にかけられ生涯を終え、その教えは弟子達に引き継がれました。約300年間、ローマ帝国のきびしい禁令下で信者を増やし、313年にコンスタンチヌス帝によって、ようやく公認されました。当時、キリスト教信者は全ローマ帝国住民の約10分の1を占めていたと言われます。 

 

この公認までの期間こそ、キリスト教にとって長く困難な時代でした。クリスチャンは執拗に迫害され、その凄まじさは総延長560キロにも及ぶローマのカタコンベ遺跡が雄弁に物語りますローマ帝国下での迫害は、先に挙げた「世界宗教を受容した帝国の影響が及ばないところでは伝播に困難が伴った」という状況を示すと言えます。 

 

しかし、キリスト教ローマ帝国に受容され劇的な変化を迎えます。392年、テオドシウス帝が「国教」とした後は、ローマ帝国の支配的宗教となり、反対に、他の宗教は禁止されました。クリスチャンは弱者として迫害される時代を終え、ローマ社会の強者に変貌したのです。キリスト教と帝国政府は強固に結び付き、奨励、宣教は国家の政策となり、その教えは広大な帝国領と周辺に伝播して行きました。

 

 

カトリックゲルマン人の帝国

 

476年の西ローマ帝国の滅亡により、ローマ・カトリック教会は頼みの後ろ盾を失い、ヨーロッパの新しい主人であるゲルマン民族の中に庇護者を求めました。当時、ゲルマン諸族は生き残りをかけた激しい闘争を繰り広げており、ヨーロッパでのカトリック伝播は、諸国が弱肉強食の生存競争を展開するなかで推進されたのです。 

 

496年、フランク王国のクローヴィス王は3000人の戦士とともに、アリウス派からカトリックに改宗しました。クローヴィスは、西ゴート王国などアリウス派を信じる敵国を「異端討伐」という大義名分のもとに征服しフランク王国の覇権を拡大しましたが、それはまた、カトリック圏の拡張をも意味したのです。 

 

クローヴィスの改宗は、ローマ文明を継承し、高い権威をもつカトリック教会と連合することで、王権と国家の威信を高めるとともに、戦争の名分を得て隣国を倒すための生存戦略と言えました。カトリック教会にとっても、フランク王国との連帯は、教会の安全と布教のための生存戦略だったのです。 

 

732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルは、ヨーロッパに進撃してきたイスラム軍をツール・ポワチエ間の戦いで破り、キリスト教世界の危機を救いました。その子ピピンは、ローマ教皇と結びつきカロリング朝を建て、教皇に広大な領地を寄進したのです。 

 

ピピンの子カール大帝は、さらに領土を拡大し、版図は西ローマ帝国に匹敵するものとなりました。カールは800年に教皇レオ三世により、ローマ皇帝に戴冠され、ここに西ローマ帝国ゲルマン人の手によって再建されたのです。この戴冠の時から「ヨーロッパ」が始まったと言われます。 

 

カールはキリスト教を背景とするカロリングルネッサンスと呼ばれる文化事業を推進し、この文化の発展も、キリスト教伝播を後押ししました。こうしてローマ教皇庁フランク王国を軸に、カトリック圏がヨーロッパに拡大していくのです。 

 

955年、東フランク王国のオットー大帝は、ヨーロッパに脅威を与えていたマジャール人をレヒフェルトの戦いで破り、キリスト教世界の守護者となりました。952年には、教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国を成立させたのです。この帝国は、カトリック世界の頂点に立つ国家となり、844年の長きにわたり存続しました。 

 

キリスト教宣教の使命は、ローマ帝国滅亡から近代に至るまで、西洋の多くの帝国が引き継ぎました。周辺諸国は帝国の強力な軍事力を恐れる一方、先進的な文明は、帝国の政治的影響圏を越え、広範な地域に光を発し、合理的な統治制度と洗練された文化は人々を引きつけ、諸国の政策決定に影響を及ぼしました。このような帝国の影響力により、近隣国家は次第にキリスト教を受容し、キリスト教化した国家が、また近隣国家のキリスト教化に影響を及ぼしたのです。 

 

キリスト教伝播に宣教師の役割は重要ですが、宣教師は帝国と教会、すなわちキリスト教世界が派遣したメッセンジャーで、巨大帝国の大きな威光を背景に宣教をおこなったのです。キリスト教帝国の影響が及ぶところでは、帝国に敵対する行為である宣教師迫害はほとんど起こりませんでした。反対に、キリスト教帝国の影響圏外の国家では、たとえ多数の信者を獲得しても、キリスト教は禁止され、宣教師が弾圧された歴史があったのです。フランク王国の影響が及んだ6世紀のイギリスでは、40人の宣教師によって国家のキリスト教化が成し遂げられましたが、キリスト教国家の影響圏外にあった17世紀の日本では、400人の宣教師が、決死の伝道をして数十万人の信徒を獲得しても、キリスト教は禁止され宣教師は追放、迫害されたのです。

 

 

 

●国家の生き残り戦略とキリスト教受容

 

ハンガリーポーランドは、キリスト教国家との熾烈な闘争のなかで、国家生存のためにキリスト教を受容し、中欧の大国に成長しました。オットー大帝に敗北したマジャール人(ハンガリー人)の指導者ゲーザは、自分を打ち破った敵国の宗教であるキリスト教を受容し、キリスト教共同体の一員となることで、国家の生き残りを計りました。その子イシュトヴァーンは、改宗を拒む者を武力で抑えキリスト教を国教化し、紀元1000年にはローマ教皇から王冠を贈られ戴冠し、ハンガリー王国を成立させます。ハンガリーは、ヨーロッパを苦しめた異教徒の蛮国からキリスト教世界の東方を守る要衝国家に生まれ変わったのです。 

 

ポーランドは、966年、首長ミェシュコがカトリックに改宗しました。この改宗により、自らを標的とするドイツ人キリスト教徒の異教討伐という大義名分を奪い、カトリック国のボヘミアやドイツ諸侯国と同等の外交的地位を獲得したのです。その後ポーランドは、ボヘミア神聖ローマ帝国と友好関係を結び、ドイツ人遠征軍を破って、バルト海沿岸を領有し強国となりました。 

 

バイキングが建国したデンマークスウェーデンノルウェーという軍事強国は、10世紀後半から11世紀の初めにかけてキリスト教を受容しました。ノルウェーのオーラブ1世は、オランダ、イギリスなどを訪問中にキリスト教に改宗しました。オーラブ1世は、多神教を信じ改宗を拒否する豪族を即座に殺害したといいます。この三国は国家統合と王権強化のために、キリスト教とヨーロッパ文明の受容を決意したのです。ヨーロッパを荒らし回ったバイキングは、キリスト教文明に感化され、北欧キリスト教圏を形成しました。 

 

遊牧民との戦いを続けていたロシアでは、988年、キエフ大公ウラジミール1世が、ビザンティン皇帝の妹と結婚し、ギリシャ正教に改宗し、これを国教としました。同時に、ビザンティン帝国専制君主制と文化を導入し、ヨーロッパ・キリスト教圏を構成する一員となったのです。 

 

以上、ヨーロッパのキリスト教受容の流れを見てきました。諸国はながく、多神教民族宗教キリスト教の異端を信じており、本来、改宗は容易に成されるものではありませんでした。諸国は外からはキリスト教帝国の文化的影響と政治的圧力、また周辺国との生存競争に直面し、内には、王権強化という課題を抱えていました。それらを解決するために、キリスト教帝国と友好関係を結び、国内外に対して、自らの権威と自国の優位を確立するため、超国家的権威を有するキリスト教受容に向かったのです。ヨーロッパのキリスト教受容は、国家の生存、発展戦略として行なわれ、受容主体は王権でした。国家理念の制定と普及は王権のみが決定、実行し得る事業だったからです。 

 

以上のような背景の下、10世紀から11世紀にかけて多くの国がキリスト教化し、ヨーロッパではキリスト教国でなければ、国際社会の成員とは見なされなくなりました。こうしてキリスト教は全ヨーロッパを覆う宗教となったのです。 

 

更には、近世の大航海時代以降、ヨーロッパ諸国の世界進出によるキリスト教文明圏の拡大は、征服、植民地化、それに伴う移民など、一層直接的なキリスト教帝国による対外活動と影響力の行使によって成し遂げられました。それにより南北アメリカ、アフリカ、オセアニアなどに多くのキリスト教国家が誕生したのです。

 


 
 イスラム帝国とジハード
 

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イスラム教はマホメット死後わずか10年にして大帝国を形成した


イスラム教の歴史は、世界宗教伝播における、帝国の役割と国家の生存戦略という背景を、キリスト教以上に反映しています。イスラム国家は、砂漠の多いアラビア半島で誕生し、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)とペルシャ帝国という巨大帝国に隣接していました。イスラム国家は、半島を越え、領土を拡張しない限り、どちらかの帝国に従属するしかなく、宗教共同体国家の独立と生き残りのため、自らが帝国となる道を選択したのです。 

 

イスラム教にとってジハード(聖戦)は、説得や統治、また戦いという手段を用いて、イスラム教を伝播する行動です。マホメットは、メッカで宣教を始めましたが、迫害を受けてメディナに逃れ、そこで政治権力を握りました。 

 

王権を獲得したマホメットは、イスラム共同体(ウンマ)を整え、メッカを攻略し、全アラビア半島を制圧した後、632年に62歳で他界しました。イスラム教が他の世界宗教と異なるところは、教祖の代に国家建設を成し遂げたことです。 

 

第2代カリフのウマル一世は、周辺帝国に対し、大征服を決意し、シリア、エルサレムを攻略し、641年にネハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシャ軍を破り、翌年、ビザンティン帝国からエジプトのアレキサンドリアを奪い、中東から北アフリカに及ぶ大帝国をつくりあげました。 

 

これはマホメットの死後わずか10年のことです。イスラム帝国は、ウマイア朝に至ってさらに領土を拡張します。イスラム教徒にとってジハードは、宗教的理想と国家の生存戦略がひとつとなった宗教的実践であり、それによって建設された帝国は、イスラム教の理想を実現するという明確な目的を持ったのです。 

 

中東のイスラム化は軍事力によるものでしたが、アフリカでは、イスラム教徒の隊商が、教勢拡張に大きな役割を演じました。東南アジアへのイスラム教伝播も、文明力を背景に成され、イスラム帝国の優れた文物が交易によりこの地方にもたらされ、現地の商人や指導層がイスラム教を受容しました。15世紀はじめには、イスラム教国のマラッカ王国が樹立され、国民を教化し、今日の二億人を越える東南アジアイスラム圏形成の基礎を築いたのです。

 

 

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